G-FP2DF1P69Y 松下ヨシナリ・ロングインタビュー~編集後記: 小林ゆきBIKE.blog

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2012.01.18

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~編集後記

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その3
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その4
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その5
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~最終回

新春特別企画としまして、6回に渡ってお送りしました、“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさんの超ロングインタビュー。いかがでしたでしょうか。

もともとブログを書くためにインタビューしたわけではなかったのですが、雑誌記事(英文)にするにあたって、全編テキストに起してみたところ、これを.お蔵入りしてしまうのは、もったいない! と思い、ご本人にも快諾していただき、このような形で発表することができました。

とはいえ、ここに至るまでには、自分の中での葛藤のようなものがあり、今日は編集後記として心のうちをしたためておこうかな、と。

(このあと事故の話が続きます、念のため)

そもそもわたしがマン島TTレースを初めて訪れたのは、1996年のことでした。

これは拙著にも書いているんですが、ひょんなことから、当時所属していた「クラブマン」という雑誌の取材で一人で訪れることとなったものです。
初めて訪れたマン島は、そりゃあ、話には聞いていたものの、聞くと見るとでは大違い。その歴史や文化のスゴさたるや、受け止めきれないほどの強烈な印象を与えたのでした。

これは凄過ぎる! と思ったわたしは、何とかしてもう一度、いや、マン島やTTレースの何たるかがわかるまで通ってやる! という強い決意のもと、クラブマンを離れ、フリーランスになりました。

1997年はまだクラブマンにいたため、TTに行けなかったのですが、以降、1998年から毎年、年によっては年に2回、あるいは1カ月・2カ月・半年と滞在し、ついには大学院で「マン島におけるモータースポーツ文化の生成と発展過程」なる研究まで始めるようになりました。

そんなわたしなのですが、実は、TTライダーと親しくなることを意図的に避けてきたフシがあります。

初めて取材したときだったか、2度だったか3度目だったか。
マン島TTレース取材歴では先輩のSさんという方が、こんなことをおっしゃっていました。

「さっきまで笑顔でしゃべってた友だち(TTライダー)が次のレースで死んじゃったりするんだぜ」

そのときは漠然と、長くマン島TTレースに通うと、いつかはそのときが来るんだろうか、と思ったものでした。
それでも、毎年通えば、それなりに人間関係も出来てきて、TTライダーの友だちも出来てきます。

TTライダーになる前の前田淳さんとは、鈴鹿のレースで同じレースに出ていた関係もあって、日本で知り合ったのですが、Sさんの言葉があったからかどうかはわからないけど、今回の松下さんのような本格的な取材はしたことがなく(現地で、あるいは電話取材という形でちょこまか話を聞いたり、会食中に歓談というのはもちろんあったのですけど)、実は無意識的に避けていたんじゃないかな、というのを、あんなことになってから気付きました。

〈そのとき〉は、2003年、ついにやってきてしまいました。
その年のプラクティスで、次なるヒーローと目されたデイビッド・ジェフェリーズが事故死し、まだ悲しみ覚めやらぬTTウィークでした。
わたしはスターティンググリッドあたりでうろうろしていますと、なんとも風情のあるヒゲのライダーを見つけ、パチパチと撮影しておりました。すると、そのライダーはレース前にも関わらず親しげに話しかけてくれ、一気に親しくなった……はずでした。
そのレースを9位という好成績で終えた彼──ピーター・ヤーマン選手は、そのあとのパレードラップにブルタコで出場したのですけど、スタート直後のブレイヒルでエンジンが焼きついたことが原因で転倒し、帰らぬ人となってしまったのです。

スイスから10年ほどマン島TTやマンクス・グランプリに参戦していた彼は、とてもフレンドリーな性格で、パドックの誰からも愛されていた人物だったと、あとでTT関係者に聞かされました。

とはいえ、レース前に少しお話しただけのピーター。ついにわたしにもやってきた〈そのとき〉だったとはいえ、良く知らない誰かの死、以上でも以下でもありませんでした。

次にやってきてしまった〈そのとき〉は2005年に訪れました。
その年は修士論文の調査で7月から9月の約2カ月マン島に滞在したため、初めてマンクス・グランプリを取材できることになりました。
TTライダーの中でももっとも仲が良かったのが、ジェフ・ソイヤーでした。
彼と知り合ったのはマン島ではなく、1997年から10年間通ったデイトナバイクウィークででした。デイトナで知り合ったけど、マン島に行ったことがあると話すと、一気に距離が縮まり、仲よくなったのです。
そして、毎年、TTやデイトナに出かけると、ジェフとは食事に行ったり、またポストカードや掲載記事のやりとりなどしていました。

2005年のマンクスGPでジェフは少しだけ機嫌が悪かったのですが、聞けば、その年のTTのエントリーを断られてしまったのだとか。でも、2007年の100周年のTTにはどうしても出たいから、マンクスGPで頑張るというような話をしていました。
その、ちょっとの気の焦りが事故につながったのかどうか。
レース前の準備を一緒に手伝ったりして、プラクティスを迎えました。わたしはどこで取材していたのか覚えていませんが、プラクティスが終わって、念のためと思ってプレスルームに戻り、リザルトを受け取ると、リザルトと同時にプレスリリースが出ていて、何人かの転倒を知らせる文字が並んでいました。
そこにはジェフの名前もあったのですが、serious injureがどのような意味を持つのかは、その頃のわたしには理解ができていませんでした。
ホームステイ先に帰り、なんとなく胸騒ぎがしつつも見舞いに行こうと思って、ジェフのステイ先の別荘に向かうと……。

このあたりの話は、そのときのブログ記事で書いていましたね。

ジェフの死後、翌日だかにはジェフの彼女と一緒にレースをしていたチームの仲間が、ジェフに会いに行かないかと誘ってくれ、ノーブルズ病院の安置室に連れて行ってくれました。
ジェフの件で初めて、〈そのとき〉がわたしにも訪れたのだと悟りました。

翌2006年は、皆さまも良く知る日本人ライダー、前田淳さんの件が起こるわけですが、わたしにとってショックな出来事は、彼の事故の数日前に遭遇してしまったサイドカーの事故の方でした。
絶命するまでの一部始終を目撃してしまうというのは、何ともキツいものであり、前田選手が事故をしたときは、意識がないと聞いても、でも、そこに命は生きているわけで、そのときのわたしにとってショックな体験は目撃してしまったことの方でした。
とはいえ、サイドカーの選手たちは、わたしが会ったことのない知らない人たち。
もっともっと怖かったのは、生身の人間たちだったのですが、その話はまた別の話。

まぁ、そんなこんなで、通い続けているマン島TTレースでは、何度も人の最期に遭遇しているわけなんですが、それがわたしを臆病にさせてしまったのか、前田淳選手とは最後まで意図的に距離を置いていたし、松下さんにしても、2000年くらいに初めて筑波サーキットかどっかで知り合って、ライター仲間のような、サーキットでいつも会う知り合いのような、そんな距離感で仲良くはさせてもらってきたけど、松下さんがTTに参戦すると聞いても、大っぴらに応援活動するとかいうことはしてきませんでした。

今思えば、やっぱり怖かった。仲良くなってしまえば、〈なんかあったとき〉──わたしもまた日本人特有のメンタリティ〈なんかあったときどうすんの〉症候群に陥ってしまっていた──に、自分が保てないかもしれないと恐れを抱いていたのです。

そんなわたしの背中を押してくれたのが、このたびのTTSC(TTサポーターズクラブ)からの原稿依頼でした。
TTライダーの経験を日本語で聞けるというのは、自分のマン島TT研究に置いても有意義なことですし、ようやく勇気を出してインタビューに臨むことができました。

ここで一つ自分のみっともなさを暴露すると……。

実は、松下さんが1回目にマン島TTに挑戦するという、出国数日前のこと。
それまで松下さんと知り合いだったとはいえ、彼の覚悟のほどがいかほどかはまったく知らず、もしも軽い気持ちで「思い出作り」の参戦だったらマズいなぁ……という思いから、かなり迷った末に直接電話を入れました。

わたしが伝えたかったのは次の2点です。

・最後に「お金」の面で頼れる家族はいるか? 意識不明になったとしても、1000万円ほどあれば看護士や医師同伴で日本に飛行機で搬送することができる。日本の医療のレベルは世界一。単純な骨折など以外、大怪我を負ったら絶対にイギリスから帰ってきた方がよい。人命を考えると、1000万円くらいのお金、貯金や借金、あるいは親戚中からかき集めて集められない家族はいないと思う。そういう頼れる家族はいるか?

・海外で頼れるのは、実は日本の4メーカーやMFJ。どのように日本に帰国すればいいのかとか、大使館などにパイプがあるはず。メーカーやMFJなどに、なんかあったときは遠慮なくお願いできる人脈はあるか?

最近は滅多にこのようなお節介はしないようにしているのだけど、この2点をどうしても伝えたかったのです。

もちろん、松下さんは軽い気持ちの思い出作りの参戦などではなかったし、わたしのお節介はお節介に終わるはず……でした。
まあ、結果的に転倒したけど、なんとか日本に帰国できて、手術も日本で受けられたので本当に良かった。

松下さんが2度目の参戦を決意したと思われるツイートは今でも覚えています。

確か、

「ミラクル起こった」

とかなんとか、たったひと言のつぶやき。
そのひと言だけでわたしはなぜか、「あぁ、松下さん、またマン島TTレースに出るんだぁ」と理解したのでした。
公式に発表するだいぶ前のことでしたが、そのときは松下さんに対して心配をすることもなく、お節介な電話を入れることもなく。
それでも、やっぱり現地ではなんとなく距離を保ったりもしつつ。竹田津さんの件もあり。


そんなこんなでインタビュー記事の依頼をTTSCから受けたのですが、取材日が11月と遅れたのは、実はそれもわざとでした。
興奮覚めやらぬ6月とか7月でも良かったんですけど、それだと、レース中こんなことがあった、あんなことがあった、セッティングがどうした、誰それライダーに抜きつ抜かれつだった……など、レースそのものの話が増えちゃうんじゃないかなと思ったんです。
むしろ、わたしが興味があるのは、松下さんの「TTに対する思い」。その言葉が熟成しまとまるのは、夏を過ぎてなんじゃないかなと思って、あえて少し間を空けてみました。

するとなんということでしょう!

松下ヨシナリさんの生々しくも生き生きとした言葉の数々は、弊ブログのインタビューを読んでいただければ実感できることでしょう。

インタビューにあたっては、TT参戦までの道のりとTTに対する思いを聞きたい、つきましては時間は小一時間程度で……とお願いしていたのですが、なんと3時間以上にもわたるロング・インタビューとなりました。応えてくださった松下さんに感謝です。

そして、さいごに皆さんにおすすめしたいのが、マン島TTレース2011のDVD です。

もちろんレース本編や松下さんの参戦レポートの映像もいいのですが、ぜひ皆さんの目で確かめてほしいのは、封入されているライナーノーツの松下さんの解説です。
TTライダーならではの深くて重い言葉には感嘆させられました。

松下さんのロング・インタビューの読後にはぜひDVDをご嘆賞いただきたく。


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