松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2
新春特別企画としまして、昨年、マン島TTレースに二度目の挑戦をした“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさんの超ロングインタビューを、その1、その2に続きましてお届けします。
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ミニバイクレースで後にトップライダーとなるキッズたちに揉まれ、デザイナーしつつメーカーの試乗会でライディングの感性が磨かれ、もて耐挑戦でビッグバイクのレーサーの経験を積み、着実にレベルアップを重ねた松下ヨシナリ。転機となったのは、2006年6月のマン島TTレース初観戦だった──。
──TTに出ようと決意したときのことを聞かせてください。
「出られるなぁこれなら。と、思ったのは、2006年に前田淳さんが亡くなった年、取材に行ったとき。
あんとき、伊丹君(伊丹孝裕:元クラブマン編集長で現フリーのバイクジャーナリスト)にマン島行くんだって言われたとき、行きたい?って言われたから、行きたいって返事して。自腹でもいいから、とにかく付いて行くんだって。
そのとき(現地取材時)、(自分の人生で)初めて見たオートバイ雑誌に載ってた走りの写真が、「あ、あれマン島だ!」って思い出した。
壁があって、白いヘルメットのライダーがこうなってる、ああそうだ、バイクのレースカッコイイなって思ってインパクト受けたのって、あれ、マン島だ! って、そのとき、びしってつながったの。
それ、もしかしたら(ロン)ハスラムさんじゃないかなと思ってんの。白いヘルメットで。わりとGPオタクでマニアックだったから、そういうの好きで、『サイクルワールド』とか『グランプリイラストレイテッド』とか読み漁るの大好きで。いっつもかっこいいなと思ってて憧れてて。
で、そのときつながったんですよね、マン島だ、あれマン島だ。って。マン島だ、行く、行くって。
そしたら、マエジュンさん(前田淳)あんなことになっちゃって。びっくりして。
でも、マエジュンさんはプラクティスウィークの最初にクラッシュしてるから、僕が行ったときはすでに1週間近く経ってるんですよね。
もう(イギリス)本土の方に飛んでっちゃってて(※ヘリコプターで病院を転院した)。で、もう大丈夫だってことになってたのよ。大丈夫だってことになってたじゃない。だから、持ち直して大丈夫じゃない、って。よかったね、って言う翌日だかに亡くなったんだよね。
オレ、英語とかさっぱりわからないから、伊丹君とかと車で駐車場入ってプレスルームに入るまでに、何人かに、今日、悲しい日だよね、って言われて、あんまり意味がピンと来てなくて。
プレスルームに入ったら(小林)ゆきさんが泣いてて、それでまさかと思って。
でも、僕はマエジュンさんとはほんとにちょっと少し言葉を交わしたことがある程度で、マエジュンさん! とか呼べるような間柄ではなかったから、その、死んでしまったということが、ちょっと本の向こう側のことのような感じがしちゃってたんです。
でも、そういう出来事があったにも関わらず、僕はマン島、ものすごい楽しかったんですよ、最高に楽しかったんですよ。ちょっと不謹慎かもしれないけど。
本当に楽しくて、こんなバイクの島、あったらサイコーだなーっとおもって。毎日ウキウキで。クラシックバイクもレーシングバイクも、そんなに広く浅くだからよく知らないけど、とにかくバイクに乗ってる人がたくさんいて、バイク乗りで、バイクが好きだっていう空気感が良かったんですよ。これは最高だ、こんなところねぇって。
ホンダさんから(広報車の)CBR600RRとCBR600Fを借りて、島じゅう走り回ったんですよ。ツナギ隠し持ってって、毎朝走ったりとかして。
で、走ってみて、コース面白かったし。朝早く。走り屋の外人さんとかいて、どうみても道、すべてたたき込まれてるでしょ?、オッサン! とかいう人がいっぱいいたりとか。ローカルなんだかよくわかんないけど。
で、レース見ながら、真ん中から下の人たちだったら、別に通用するんじゃないか、って思ったんですよ。出れんじゃないかな、と思って。
で、伊丹君に「出られると思うんだよね」って。「出られるようなアクション取れるかなー」って。そしたら伊丹君も「オレも同じこと考えてた」って。それじゃあ、なんとなく一緒に目指すみたいな感じにして、やろうかっていう話に、帰りになったんです。
で、翌年がセンチナリー(100周年記念)で、翌年も行くんです。で、もう一回行って、100周年の雰囲気も見て、「大丈夫、オレ、通用する」って」
──参戦を決意するにあたり、気にしたのは走りのレベルですか?
「いや、コースですね。攻略できるかが一つと、あと、怖いと思うか思わないかが一つあったんですよね。
走ってて、楽しいの比率が高いか、怖いが来るか、どっちかなーと思ったら、楽しいが全然(来た)。
覚えきれるかってのがあったし。でも覚えられるか覚えられないかは、あそこに出てた当時80人くらいの人たちは、少なからず覚えているわけじゃないですか。
あの人たちに覚えられるなら、オレも覚えられるなって。僕の論理は全部そうなんです。相手に出来るんだったら自分にも出来るっているのが礎なんです。
ことオートバイのことに関して言えば、まあ、そんなに操作なんて大差ないし、まあ、真ん中より上の人たちは頭おかしいけど(笑)」
──実際にTTに出るにあたってまずは何をしましたか?
「マン島に出たいけどどうしたらいいかって調べてみたら、国際ライセンスを取らないとFIMのライセンスが出ないって言われて、当時ACU(※オートサイクルユニオン=イギリスのモーターサイクルスポーツ統括団体)とか知らなかったですけど、国際ライセンスがないとACUライセンスも取れないって言う風に言われ、じゃあ国際にあがらなきゃいけないんだ、めんどくさい、って(苦笑)。
あと、年間6戦(の条件。※TTに参戦するには国際ライセンスの他にTTマウンテンコースライセンスが必要となるが、その取得条件が年間6戦のレースを完走することとなっている)。
それをクリアするために、(オートボーイJ’sの)鴻巣さんにお願いして(レース参戦用の)バイクを借りて」
子どもの誕生と、年齢の壁と。しかし、「人間としての運動能力を保てるのには限界がある、やれるときに、なるべく早くやらないと」
──TT参戦にあたって、チーム体制などはどのように作っていったのですか?
「三宅島(三宅島モーターサイクルフェスティバル)に2007年の10月、イアン(ロッカー:ベテランTTライダー)が来ました。
で、そこで一気にTTライダーとの距離が詰まるんですよね。
そのとき、すでに伊丹っちと出ようって決めていたにも関わらず、イアンには(TTに出たいと)言えなかったんです。まだ他人にマン島に出たいって言ってなかったんです。
まだホームページすらなかったんです。
なんかそんなこと言ったら……言っていいのかなって。国際(ライセンスライダー)でもない、わけわかんないライターだし、デザイナーだし。そんなヤツにマン島? アホか? って頭ごなしに言われるのわかっていたから。
わかってたっていうか、そういう雰囲気を自分の中で勝手に作ってたっていうか。
で、イアンに結局言えなかったんです。イアン帰っちゃったんです。でも、すっごいイアンと仲良くなったんです。東京見物も一緒にして、酒も毎日一緒に飲んで。で、イアンが帰っちゃって。
で、翌年、また三宅島で今度は僕メインMCをやらしてもらって。
今度はミルキー(リチャード・“ミルキー”・クォイル:元TTライダーで、現在はTTライダーのアドバイザーを務めている)も来るんです。
で、いつでも国際(ライセンス)に上がろうと思ってたし、このマシンがあって(レーサーのZXR1200)。
当時これで地方選に出られるカテゴリーがあったんですよ、スーパーTCフォーミュラっていうクラスが。
で、表彰台に乗ったりとか。
あと、もて耐に(BMW)HP2スポーツで優勝したのがまあそこそこ周りにインパクトがあったみたいで、第一ライダーもやったし、タイムもまあまあ出て、5秒とか4秒とか出るんで。2気筒の空冷で。
なんとなく年末頃には「国際上がりたいならいいよ」ってカミチューさんが推薦してあげるよーって言って下さって。
で、意を決してイアンとミルキーにマン島出たいんだって打ち明けるんです。じゃあ、出たいなら手伝うよって言ってくれて。それなら手伝ってあげるよって言ってくれるんですけど…。
でもいろいろあって。で、オマエは誰なんだってとこから始まって。で、一緒に筑波サーキットに行ったりね。
コレクションホールに行きたいって。じゃあそれを企画にして、コレクションホールに行くのあとにして、バイク借りてツーリングに行くんです。で、筑波サーキットも寄っちゃおうっていうのも企画にくっつけて。
ドッグファイトさんにバイク借りて。イアンとミルキー、喜んでた。トリッキーだけど狭いけど面白いコースだねって。イアンはあっと言う間に3秒くらいで走ってて。やっぱすげーなーワールド、と思って。
で、一緒に走って、どう? って話をしたら、「マツ、お前ぜんぜん平気だよ、大丈夫だよ、走り見て安心したよ、まともだから全然大丈夫だよ、心配しなくていいよ」って言ってくれて、「どういう手伝いしたらいいか考えておくよ」って。で、帰っちゃったんですよ。
ちょうど僕がマン島TTに参戦の1年目、2009年に出たときに子どもが生まれたんです。
タイミング的には2008年の12月生まれなんです。うちの娘が。
イアンとミルキーにTT出たいって言ったとき、お腹に子どもがいるって言ったら、それでイアンとミルキーは一瞬、反対するんです。
そんな、子どもがこれから生まれるのに、TTなんて出るべきじゃないぞって、曖昧な答え方をしたんです。
でも、ミルキー・クォイルとイアン・ロッカーが目の前にいるのは今しかないし。
今TTに出たいって言ったら……、もう来年でしょ、もしくは再来年でしょ。
今、このタイミングは今しかないし、僕は当時38歳の年ですよね。38歳。もう人間としての運動能力を保てるのには限界がある、と。やれるときに、なるべく早くやらないとダメだから。
それで、もし僕が亡くなるようなことがあっても、そりゃ僕自身の運命だし、そういうことはないように約束するから。って言って。
もうそのタイミングっていうのは絶対あるから。
あのとき、迷ってイアンとミルキーに出たいって言わなかったら……。だって、次の日来てないんだから。
だから、やっぱりあのタイミングはどんぴしゃだったんだなと。
それからなしのつぶてで連絡もなく。じゃあ2009年のTTに出ることはないなって勝手に判断してたんですよ。1月頃。そしたら「ウチのチームで出なよ、2008年型落ちでよければR1が一台あるし、ストック仕様だけど」って連絡があって。そのかわり、「資金とメカニックはちゃんと用意してね」って」
──で、お金は実際どうしてたんですか?
「スポンサーを集めました。僕ね、ずっと、こういうチャレンジをするんだったら、絶対に人のお金でやろうと思ってたんです。それがレーサーだからって。自分のお金でやるんだったら趣味って。僕みたいな立場でやるんだったら、へんてこりんなキャリアだけど、レーサーとしてスポンサーを獲得して、そういう大きな舞台に出ることができたら、夢があるなって思ったんですよ。アイツにできるならオレにも出来るんじゃね? みたいな。
でも、やっぱ大変でしたね。プロレーサーだったことがないし、スポンサーを獲得する活動なんて一回もやったことないし。まず企画書を作るところから始めて、てんやわんやの大騒ぎでしたね。
企画書は代理業をやってたおかげで、企画書を作るお手伝いをしたことはあったし、企画書だけはなんとかできました。でも、それを持ってさてどこに行きますか?(苦笑)
しょうがないから、今まで名刺交換した人に片っ端から連絡して、「ちょっとこういうことやろうと思っているんですけど、スポンサーを紹介してください、もしくはスポンサーになってください」って言って、「なんか芽があるようだったらすぐ行くから」って。とにかく足で稼いで。
ちょうどその時点で、ダンロップの展示会のMCのイメージ、2年くらいやってたし、三宅島もメインMCやりました、もて耐も勝って、いろいろ露出させてもらえて、なんとなくこんなヤツいるなってなんとなく業界にこんなヤツいるなって浸透してた頃で。
それでもお金出してもらうなんて信じられないことで。だってお金ですよ。だから、僕のツナギに付いてるスポンサーって変わってるの。オートバイ業界とは違う、アウトドアブランドとか、居酒屋とか。
とりあえず、車両のレンタルフィーは別として、300万円くらいあれば出来るんじゃないかなって思って。でも計算機叩いたら、300万円じゃあぜんぜん足りなかった。とりあえず500万円にしようと思って上方修正して。でも集まらなかったですけどね(笑)。チームの人に飯食わせなきゃいけないし、ギャラくらい払わなきゃいけないし。多少持ち出しもしましたけど、なんとか辻褄があったっていうのがありがたかった。
アラカワシンイチロウさんがTシャツをデザインしてくれて、これ売りなよとかアドバイスしてくれたり。ペアスロープさんとか販売も手伝ってくれて。
それも新垣さん(元世界GPライダー新垣敏之)のマネですよね。
ああいう先輩たちがやってきたことがあって、それを知ってたりアドバイスしてくれる人がいたから、出来たことで。自分が考えたことじゃないですよ。全部先輩たちがやってきたことを真似して自分なりに咀嚼してやっただけで。
マン島も、マエジュンさんが10年やってあそこまでのポジションを築いたから、僕がエントリーを認められたんだと、今でも間違いないなと思ってるし。
先輩がいて、ちゃんとやってきてくれたから続いただけで。
オレもちゃんとやらないとって。だから、バカにされようと、妙竹林になって阿呆みたいに思われようと、そこに行けば結果はついてくるし、ちゃんと真面目にやれば、見てくれる人は見てくれると思って」
(その4にまだまだ続きます!!)