G-FP2DF1P69Y さようなら、クラブマン。: 小林ゆきBIKE.blog

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2009.04.24

さようなら、クラブマン。

わたしが1998年1月末日まで在籍した「クラブマン」誌が休刊することになったそうです。

clubman (クラブマン) 2009年 06月号 [雑誌]


出版業界の七不思議なんですけど、休刊とはすなわち、事実上の廃刊の場合がほとんどです。アウトライダー誌のように版元を行き来して生きながらえるパターンはほんのわずか。
しかも、最近じゃあ、いつものような紙面作りで、編集後記でちらっと「休刊のお知らせ」が載っているなんてことが普通になりつつあり(例:ジパングツーリングとか)、今回のクラブマンのように、最終号的な誌面になるのはそれだけ、編集者の思い入れが反映されていてマシと言おうか……。

もう、なんというか、思い出があり過ぎて、感謝してもしつくせない思いがあって、今はなんと言っていいか……。
でも、つらつらと思い出話を書いてみようと思います。


わたしが「クラブマン」誌に移籍した経緯は、拙著『出たとこ勝負のバイク日本一周(準備編)』でも軽く触れましたが、もともと在籍していた「ラ・モト」誌がツーリング雑誌からカスタム雑誌に移行しつつあるとき、筑波サーキットでシングル・ツインレースを取材したりしていたことがきっかけでした。

当時の「ラ・モト」誌はツーリング→カスタム誌という極端な試行錯誤が続いていただけでなく、いろいろと問題を抱えていて、決していい環境になく、クラブマン関係者から声をかけていただいたときは、そりゃあもう、隣の芝が青く見えたものでした。

初めて面接に行った当時、クラブマン編集部は旧桜新町本社のワンフロアに全編集部が納まるきれいなオフィスにあって、それだけでもう隣の芝は青々と輝いて見えて。

面接のとき、直接話をしたのは、Y崎さん、I倉さん、I田さんらでしたが、それを取り囲むように、T口さん、そしてO野さんら、身長180㎝前後の大男たちに囲まれて、ちょっとおっかないな~と思った思い出があります。

O野さんに、

「で、あなたはバイクの何が得意なの?」

と聞かれたので、乗って速いわけじゃないし、メカもまったく自信がない、でも乗ってる距離は人一倍乗ってます、と答えました。
当時は、年間4万kmくらいバイクに乗っていました。

それで、クラブマン誌に採用されたんですけど、ほとんど同時に入社したのが、飛行機ジャーナリストとしても有名になりつつある、ごっちゃんこと後藤武氏です。いわば、同期の桜ですけど、バイク的にはもう大大大センパイであります。

初めての仕事は、筑波サーキットで開催された「ネコ・デイ」に顔を出す、というようなものだったと記憶しております。
なにしろ、初出勤がサーキットですので、誰も知っている人がいないし、受付じゃお客さん扱いだし、何を手伝ったらよいのやら、不思議な初出社でした。

次に仕事らしい仕事と言えば、スポーツランドSUGOで行なわれたサンデーレースのグースワンメークレースに出ることでした。

翌週には、O野さんに「このバイク、〇〇ってバイク屋さんに持ってって~」と頼まれた先が、大阪。カタナに乗って大阪まで走っていきました。だって自動車の免許をまだ持っていなかったので。

翌月、自動車の免許を取得し、その翌日、言い渡された仕事が、那須のサーキットにレンタカーでバイクを運ぶ仕事。
レンタカー屋さんにクルマを引き取りに行くと、そこに用意されていたのは、ホーミーかなんかのマニュアルのスーパーロングでした。昨日免許取ったばかりの初心者に、スーパーロングのワンボックスのマニュアルで那須往復ってどうよ。とか思いつつ、慌てて初心者マークを買いに行ったことを覚えています。

そのようにして徐々にクラブマン的なる仕事を覚えていったのですが、ひと言で言うなら、「仕事に必要なことは全てクラブマンで学んだ」と言っても過言ではありません。なんと言っても、容赦がありませんでした。

そこには、ある種の“美学”が詰まっていました。クラブマンイズムと言おうか、オノイズムと言おうか。
カメラマン出身の編集顧問ですから、とくに写真にはこだわっていて、カメラマンも編集者も地面にはいつくばって、撮影前の磨きに1時間、でもシャッター切るのは1分とか、雲が切れるまでとか日が落ちかけるまで1時間待ちとか、雨なら躊躇なく撮影中止とか、惜しみなくコダックのPKRを使うとか、今では考えられないほど手間ひまかけて撮影や取材をしていました。
そういうことを、大先輩らに、時に罵倒されながらも、ひとつひとつ伝承されていったわけです。

今でも感謝しているのは、クラブマンではほとんど女扱いされなかったことです。
いや、多少はあったのですけど、例えば1000cc超クラスのバイク×2台をハイエース(通称:クラブバン)で一人で引き取りに行って、自分で積み込み、撮影現場で下ろして、自分で試乗して、また積み込んで、返却しに行って……みたいなことは日常茶飯事でした。
今でもメーカーの試乗会で「女性の目から見てどうですか」という質問に違和感を覚えるのは、そのような経験をしてきたからかもしれません。

午前2時の編集会議で、「じゃあ明日5時編集部集合!」(つまり3時間後)なんてこともあったし、締め切り前の1週間はみんな泊まり込みだったし、校正日は全員徹夜で黙々と色校正・文字校正を進めるのが恒例でした。
全員が黙々と校正を進める中、おかしな記述なんかがあると「オマエーなんだよーコレー!!」と全員の前で晒されたりするものですから、そりゃあもう鍛えられたもんでした。

とはいえ、残業が続くとよく全員でご飯を食べたりだとか、レース活動したりとか、切磋琢磨の中にも家族的な密な人間関係があったように思います。

当時在籍していた、K野君とか、K西君とかはフリーでバリバリやっているし、隣の編集部員だったマコナベはHARDCORE CHOPPER Magazine (ハードコア・チョッパー・マガジン) 出してたりとか、同期のごっちゃんとか、入社的には後輩の髙城っちは編集長にまでなっちゃった。みんな、けっこう大成していてなんだかうれしい。

ご存じのように、クラブマン誌は版元を移籍したわけなんですけど、22年間の膨大なデータの蓄積はぜひとも生かしていって欲しいと思います。
少なくとも、完全データ入稿以前は、写真データは月号ごとにきちんと管理していたので、それらの写真なりを編集し直して、アーカイブとして生かせないものかなあと。

年一回でいいから、保存版的写真集とか出せないかなあ。

出版形式じゃなくてもいいから、ネットでそれらのアーカイブのデータベースにアクセスできるようにならないかなあ。

あと何十年か、あるいは何年かすれば、クラブマンに載っていたようなバイクも、ある意味、文化遺産的なものになるとは思うので、ぜひとも、休刊してもデータだけは大切に保管していただければなあと思います。

ともあれ、関係者の皆さま、お疲れさまでした。

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