G-FP2DF1P69Y 三宅島TTについて週刊新潮でコメントしました: 小林ゆきBIKE.blog

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2006.10.04

三宅島TTについて週刊新潮でコメントしました

Shukanshincyo

今発売されている週刊新潮(2006年10月12日号)の136ページ TEMPOタウンのコーナーの記事『話だけが疾走する三宅島周回「バイクレース」』の記事にコメントしました。

ちょっとだけ誤解を受けそうな表現があったので、追補。

「マン島の予算は70億円ともいわれています」(週刊新潮に掲載された私のコメント)

さまざまな経済効果を試算するとだいたい60億円から80億円くらいなので、「予算」というよりは「経済効果」でありました。
行政側の予算、に誤解されそうな表現でした。すいません。訂正します。

ちなみに、マン島政府観光省がTTウィークに支出した額は、2004年は181万5259ポンド(1ポンド=200円として、約3億6300万円)だそうです。

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コメント

誤解されそうとかじゃなくて明らかな間違いですよね。「予算」って辞書ひいてみてください。

ジャーナリストを名乗ってるならもうちょっと言葉に敏感になってくださいよ。

といつもいつも思います。あと事実と推測の区別にも敏感になって欲しいですね。

投稿: とくめい | 2006.10.05 01:29

読者Tさんへ。

サイトポリシーにより貴方様のコメントは非公開とさせていただきましたが、コメントありがたく読ませていただきました。

今回のコメントは電話取材かつ原稿をチェックする機会はありませんでした。
記事は週刊新潮の記者さんが書いたものです。

肩書については自称ではなく「他称」です。そのあたりについては
https://yukky.txt-nifty.com/bikeblog/2005/01/post.html

こちらをご覧下さい。

追記:コメントを公開することにしました。

投稿: 小林ゆき | 2006.10.05 10:57

>>肩書については自称ではなく「他称」です

他称であるならば(もちろんリンク先は読んだ)、なおさらに多くの人が個々に感じるであろう「ジャーナリスト」や「ライター」や「エディター」「文筆家」...といった総体的な「称」とも対峙し得ると自ら自負し覚悟していると想像されて然るべきだろう。はっきり言えば、そのスタンスにはグダグダ言いつつ措定されうる立ち位置からその都度「逃げをうつ」志向性しか感じられない(そうすれば「○○の立場では書いておりません」と常に逃げられる)わけだが、私が特に問題に思うのは、述べられている事に常に貴方自身が抱える「リスク」が伴っていない事による。貴方はそれを「俯瞰をキープする意図するところによる」と言うかもしれないが、究極的な俯瞰としての視点などはそもそもあり得ない。実際、大抵展開されているのはデータとリンク(それも時間さえ在れば取得するにそれほど難くない類いのね)を引っ張って羅列しておいて、最終的に「どうなるんでしょうねぇ〜〜?」的に帰結するパターンばかり。
貴方が貴方自身の名でマスに対して何かを表現する事には、貴方固有のスタンスは常につきまとうのであり、それに対峙し相応のリスク(記載データに対する信ぴょう性や正確性なんかに対するそれの事を言ってるんじゃないよ)を伴う事を自覚的にも対外的にも明確に表明する内容の記述無しにはいかなる表現もありえない。
貴方の使用する「他称」はその核心的なプロセスをエスケープする為にしか機能していないと思われる。
先に述べたように、総体的な意味を帯びた「他称」を標榜してはばからないのなら、ジャーナリストであろうがエディターであろうが文筆家であろうがさしあたって何に固定してもいずれをも超えていくような仕事をまず実践してみられてはどうか。その次元に達してはじめて「肩書きは何でもいい」と言えるはずだ。でないならば、例えば、「ジャーナリスト」として自らを規定しておきながら、一切の取材も無しに破天荒に偏向した半ば私小説と化した面白い読み物を提供してくれるような書き手の方が読み手としては立派な書き手であるとの評価を多とするだろう。なぜなら彼は自分自身でその内容にリスクを負い、「ジャーナリスト」と標榜しつつも「作家」の仕事をしているかもしれないからだ。その時、読み手にとって彼の肩書きは不問のものあるはずだ。読み手は彼が何が言いたいのかを読んでいるのだから。

投稿: H.O | 2006.10.05 13:14

>>肩書については自称ではなく「他称」です

他称であるならば(もちろんリンク先は読んだ)、なおさらに多くの人が個々に感じるであろう「ジャーナリスト」や「ライター」や「エディター」「文筆家」...といった総体的な「称」とも対峙し得ると自ら自負し覚悟していると想像されて然るべきだろう。はっきり言えば、そのスタンスにはグダグダ言いつつ措定されうる立ち位置からその都度「逃げをうつ」志向性しか感じられない(そうすれば「○○の立場では書いておりません」と常に逃げられる)わけだが、私が特に問題に思うのは、述べられている事に常に貴方自身が抱える「リスク」が伴っていない事による。貴方はそれを「俯瞰をキープする意図するところによる」と言うかもしれないが、究極的な俯瞰としての視点などはそもそもあり得ない。実際、大抵展開されているのはデータとリンク(それも時間さえ在れば取得するにそれほど難くない類いのね)を引っ張って羅列しておいて、最終的に「どうなるんでしょうねぇ〜〜?」的に帰結するパターンばかり。
貴方が貴方自身の名でマスに対して何かを表現する事には、貴方固有のスタンスは常につきまとうのであり、それに対峙し相応のリスク(記載データに対する信ぴょう性や正確性なんかに対するそれの事を言ってるんじゃないよ)を伴う事を自覚的にも対外的にも明確に表明する内容の記述無しにはいかなる表現もありえない。
貴方の使用する「他称」はその核心的なプロセスをエスケープする為にしか機能していないと思われる。
先に述べたように、総体的な意味を帯びた「他称」を標榜してはばからないのなら、ジャーナリストであろうがエディターであろうが文筆家であろうがさしあたって何に固定してもいずれをも超えていくような仕事をまず実践してみられてはどうか。その次元に達してはじめて「肩書きは何でもいい」と言えるはずだ。でないならば、例えば、「ジャーナリスト」として自らを規定しておきながら、一切の取材も無しに破天荒に偏向した半ば私小説と化した面白い読み物を提供してくれるような書き手の方が読み手としては立派な書き手であるとの評価を多とするだろう。なぜなら彼は自分自身でその内容にリスクを負い、「ジャーナリスト」と標榜しつつも「作家」の仕事をしているかもしれないからだ。その時、読み手にとって彼の肩書きは不問のものあるはずだ。読み手は彼が何が言いたいのかを読んでいるのだから。

投稿: H.O | 2006.10.05 13:18

>>肩書については自称ではなく「他称」です

他称であるならば(もちろんリンク先は読んだ)、なおさらに多くの人が個々に感じるであろう「ジャーナリスト」や「ライター」や「エディター」「文筆家」...といった総体的な「称」とも対峙し得ると自ら自負し覚悟していると想像されて然るべきだろう。はっきり言えば、そのスタンスにはグダグダ言いつつ措定されうる立ち位置からその都度「逃げをうつ」志向性しか感じられない(そうすれば「○○の立場では書いておりません」と常に逃げられる)わけだが、私が特に問題に思うのは、述べられている事に常に貴方自身が抱えるリスク」が伴っていない事による。貴方はそれを「俯瞰をキープする意図するところによる」と言うかもしれないが、究極的な俯瞰としての視点などはそもそもあり得ない。実際、大抵展開されているのはデータとリンク(それも時間さえ在れば取得するにそれほど難くない類いのね)を引っ張って羅列しておいて、最終的に「どうなるんでしょうねぇ〜〜?」的に帰結するパターンばかり。
貴方が貴方自身の名でマスに対して何かを表現する事には、貴方固有のスタンスは常につきまとうのであり、それに対峙し相応のリスク(記載データに対する信ぴょう性や正確性なんかに対するそれの事を言ってるんじゃないよ)を伴う事を自覚的にも対外的にも明確に表明する内容の記述無しにはいかなる表現もありえない。貴方の使用する「他称」はその核心的なプロセスをエスケープする為にしか機能していないと思われる。
先に述べたように、総体的な意味を帯びた「他称」を標榜してはばからないのなら、ジャーナリストであろうがエディターであろうが文筆家であろうがさしあたって何に固定してもいずれをも超えていくような仕事をまず実践してみられてはどう。その次元に達してはじめて「肩書きは何でもいい」と言えるはずだ。でないならば、例えば、「ジャーナリスト」として自らを規定しておきながら、一切の取材も無しに破天荒に偏向した半ば私小説と化した面白い読み物を提供してくれるような書き手の方が読み手としては立派な書き手であるとの評価を多とするだろう。なぜなら彼は自分自身でその内容にリスクを負い、「ジャーナリスト」と標榜しつつも「作家」の仕事をしているかもしれないからだ。その時、読み手にとって彼の肩書きは不問のものあるはずだ。読み手は彼が何が言いたいのかを読んでいるのだから。

投稿: h_o | 2006.10.05 13:33

>>肩書については自称ではなく「他称」です

他称であるならば(もちろんリンク先は読んだ)、なおさらに多くの人が個々に感じるであろう「ジャーナリスト」や「ライター」や「エディター」「文筆家」...といった総体的な「称」とも対峙し得ると自ら自負し覚悟していると想像されて然るべきだろう。はっきり言えば、そのスタンスにはグダグダ言いつつ措定されうる立ち位置からその都度「逃げをうつ」志向性しか感じられない(そうすれば「○○の立場では書いておりません」と常に逃げられる)わけだが、私が特に問題に思うのは、述べられている事に常に貴方自身が抱える「リスク」が伴っていない事による。貴方はそれを「俯瞰をキープする意図するところによる」と言うかもしれないが、究極的な俯瞰としての視点などはそもそもあり得ない。実際、大抵展開されているのはデータとリンク(それも時間さえ在れば取得するにそれほど難くない類いのね)を引っ張って羅列しておいて、最終的に「どうなるんでしょうねぇ〜〜?」的に帰結するパターンばかり。
貴方が貴方自身の名でマスに対して何かを表現する事には、貴方固有のスタンスは常につきまとうのであり、それに対峙し相応のリスク(記載データに対する信ぴょう性や正確性なんかに対するそれの事を言ってるんじゃないよ)を伴う事を自覚的にも対外的にも明確に表明する内容の記述無しにはいかなる表現もありえない。貴方の使用する「他称」はその核心的なプロセスをエスケープする為にしか機能していないと思われる。

投稿: OO | 2006.10.05 13:35

>>肩書については自称ではなく「他称」です

他称であるならば(もちろんリンク先は読んだ)、なおさらに多くの人が個々に感じるであろう「ジャーナリスト」や「ライター」や「エディター」「文筆家」...といった総体的な「称」とも対峙し得ると自ら自負し覚悟していると想像されて然るべきだろう。はっきり言えば、そのスタンスにはグダグダ言いつつ措定されうる立ち位置からその都度「逃げをうつ」志向性しか感じられない(そうすれば「○○の立場では書いておりません」と常に逃げられる)わけだが、私が特に問題に思うのは、述べられている事に常に貴方自身が抱える「リスク」が伴っていない事による。貴方はそれを「俯瞰をキープする意図するところによる」と言うかもしれないが、究極的な俯瞰としての視点などはそもそもあり得ない。実際、大抵展開されているのはデータとリンク(それも時間さえ在れば取得するにそれほど難くない類いのね)を引っ張って羅列しておいて、最終的に「どうなるんでしょうねぇ〜〜?」的に帰結するパーンばかり。

投稿: ho | 2006.10.05 13:37

>>肩書については自称ではなく「他称」です

他称であるならば(もちろんリンク先は読んだ)、なおさらに多くの人が個々に感じるであろう「ジャーナリスト」や「ライター」や「エディター」「文筆家」...といった総体的な「称」とも対峙し得ると自ら自負し覚悟していると想像されて然るべきだろう。はっきり言えば、そのスタンスにはグダグダ言いつつ措定されうる立ち位置からその都度「逃げをうつ」志向性しか感じられない(そうすれば「○○の立場では書いておりません」と常に逃げられる)わけだが、私が特に問題に思うのは、述べられている事に常に貴方自身が抱える「リスク」が伴っていない事による。貴方はそれを「俯瞰をキープする意図するところによる」と言うかもしれないが、究極的な俯瞰としての視点などはそもそもあり得ない。実際、大抵展開されているのはデータとリンク(それも時間さえ在れば取得するにそれほど難くない類いのね)を引っ張って羅列しておいて、最終的に「どうなるんでしょうねぇ〜〜?」的に帰結するパターンばかり。
貴方が貴方自身の名でマスに対して何かを表現する事には、貴方固有のスタンスは常につきまとうのであり、それに対峙し相応のリスク(記載データに対する信ぴょう性や正確性なんかに対するそれの事を言ってるんじゃないよ)を伴う事を自覚的にも対外的にも明確に表明する内容の記述無しにはいかなる表現もありえない。貴方の使用する「他称」はその核心的なプロセスをエスケープする為にしか機能していないと思われる。
先に述べたように、総体的な意味を帯びた「他称」を標榜してはばからないのなら、ジャーナリストであろうがエディターであろうが文筆家であろうがさしあたって何に固定してもいずれをも超えていくような仕事をまず実践してみられてはどうか。その次元に達してはじめて「肩書きは何でもいい」と言えるはずだ。でないならば、例えば、「ジャーナリスト」として自らを規定しておきながら、一切の取材も無しに破天荒に偏向し半ば私小説と化した面白い読み物を提供してくれるような書き手の方が読み手としては立派な書き手であるとの評価を多とするだろう。なぜなら彼は自分自身でその内容にリスクを負い、「ジャーナリスト」と標榜しつつも「作家」の仕事をしているかもしれないからだ。その時、読み手にとって彼の肩書きは不問のものあるはずだ。読み手は彼が何が言いたいのかを読んでいるのだから。

投稿: kent | 2006.10.05 13:44

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