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2007年1月 5日 (金)

箱根駅伝に見る“擬機械化”の言説

「公道スポーツは道が祝祭の舞台になる」と仮説を立ててマン島TTレースを研究している私だが、比較事例として日本では「箱根駅伝」を挙げると、わりと理解がたやすいかも。

箱根駅伝は東京大手町~箱根間を往復する駅伝方式のマラソンだが、単純な一本道と考えるのではなく、A地点からB地点を通ってA地点へ帰る、という「サーキット」(=周回路)と見なすことができ、マン島TTレースのマウンテンコース(一周60㎞の周回路)と比較してもいいんじゃないかと。

あと、箱根駅伝は大手町を一斉スタートするので、着順で争うマラソンと同じ競技のように思われがちだが、実は10分または20分のタイムアップルールで繰り上げスタートになるため、チームが総合タイムに向かって挑む「タイムレース」となっている。
繰り上げスタートの心配がないトップグループは競り合いによる着順や記録への影響があるが、後半のチームは“己との闘い”となるため、これもまたタイムレースであるマン島TTレースとの比較事例として検討してもよさそうな。

しかし、なんでまた国道一号線が祝祭空間に生まれ変わるのだろう? という目でこの3年間箱根駅伝を見てきた。
一つ重要な要素として、走っているランナーは大学の、それも予選を突破したりシードを守った大学の陸上部に所属するある一定の年齢層の大学生しか走れないわけで。それは、祭りにおける神輿であり山車であり、それらの担ぎ手であり引手である、ということだ。担ぎ手や引手は選ばれた人しかなることができない。
しかも、一定の時間、そこは祭りたる駅伝の空間として管理される。それを見に行く観衆とのコントラスト。

……この話は今日はここまで。

ところで、箱根駅伝を見ていて、というか最近マラソン報道などで擬人化ならぬ“擬機械化”の言説が気になった。

「昨年は8区でブレーキを起こして」(日刊スポーツ20006年1月4日付)

「ギアチェンジ」(TVのアナウンス)

ギアチェンジというのは、高橋Qちゃん尚子選手がオリンピックでサングラスを投げ捨てスパートをかけたときから広まった表現ではないかと思うが、出典は定かでない。

逆に、オートバイの世界ではけっこう擬人化した表現が用いられる。中には名前を付ける人さえ。

モータリゼーション100年の間に、人間も機械化され表現されるという現象はなんかおもしろい。

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