日記・コラム・つぶやき

2018.07.27

2000年の鈴鹿8耐

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photo by Noboru Muto


2000年から2003年まで4年間、監督として鈴鹿8耐に参戦していた。

初年度はまさに雑談から始まった無謀なチャレンジで、あの時代だったからこその参戦だったといまなら断言できる。

当時、鈴鹿8耐のエントリー台数が激減。
てこ入れとして、鈴鹿で行われていたスーパーネイキッド(S-NK)クラスのマシンを8耐にエントリーできることにして、エントリー台数増を狙うとともに、バラエティに富んだマシンが走る鈴鹿8耐を目指していた。

スーパーNKとは、ネイキッドのビッグマシン、たとえばGSF1200とか、XJR1300とか、CB1300SFなんかが走るクラスで、わたしは1996年ごろから鈴鹿選手権にGPz900RやZRX1100などで参戦していた。

その流れで、あるときチームの人たちと

「スーパーNKなら8耐走れるんちゃうか」

というちょっとした雑談から話がまとまり、エントリーに向かって突き進んだように記憶している。

しかし、第1ライダーが交通事故で怪我をして出られなくなったり、マシン製作がまったく進まず第2ライダーにエントリーを辞退されてしまったり。

ライダーが二人とも走らないことになったのは7月の頭だったが、すでに雑誌で参戦を表明していたこともあり、あとに引けなくなったわたしは、前年、同じマシンでエントリーしていて、お世話になっていた大島正さんのつながりもあって、ほとんど面識などなかったにも関わらず、元世界GPライダーの高田孝慈さんと山口直範さんに急遽お願いすることにしたのだった。

電話でオファーをし、翌日には鈴鹿に足を運んでOKをいただいたのだが、あとで聞いたところによると、

「(マシンやチームが)あかんかったらすぐやめような」

と、高田さん、山口さんとで示し合わせていたという。

そりゃそうだ、どこの馬の骨ともわからないフリーランスになりたての小娘のチームで、まだマシンの形すら見えていないという体たらく。

そんなこんなで見切り発進してしまった自分のチーム。
8耐ウィークに入ってもいろいろな事件が起こったけれど、全員1週間ほぼ徹夜というような状況で、どうにかこうにか予選を突破。

はるか彼方に1コーナーが見えるグリッド位置だったけれど、ほんとうにすがすがしく晴れがましい気持ちで8耐決勝の朝を迎えた。


* * * * *

8時間の間にもあれこれありつつも、初参戦ながら完走することができ、ついはしゃいでしまったのだけれど、隣のチームのライダーが亡くなったことをあとで聞き、複雑な気分にもなり。

「耐久は見るのも楽しいけれど、やるのはもっと楽しい!」

そんな言葉を残し、いっしょに耐久を走ることがなかった大島正さんのことを思い出しながら、他のチームにも水をかけられ涙を洗い流している写真です。

* * * * *

台風直撃が心配な2018年の鈴鹿8耐。
今年もまたいろいろな人たちの思いを乗せて8時間たたかうチームにエールを!

今年もわたしはバイクで鈴鹿に向かう予定にしております。
そして、8耐が終わったら北海道ツーリングへ。

フリーになったとき、「日本のバイク文化は鈴鹿8耐&北海道!」とスローガンのように唱えておりましたが、今年も目一杯楽しみたいと思います。

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2018.03.22

2月17日(土)ゆきズムじゃんぼりーを開催しました~前編~

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photo by Naoki OKAMOTO

去る2月17日(土)、わたしの誕生日の翌日に『ゆきズムじゃんぼりー』と題したイベントを横浜は日ノ出町試聴室その3というライブハウスで開催した。

おかげさまでキャパいっぱいの40人以上の方々にご来場いただき、またゲストの本田博俊さん、濱原颯道くん、そしてThis Timeの小森義也さん、またMCなんばちゃんこと難波祐香さん、DJ Zeck氏らにも盛り上げていただき、それからそれから快くお手伝いを引き受けてくださったカメラ岡本尚貴君、ムービーコレさん、Kommonうでわ出店お手伝いいただきましたちーちゃん、ほか、いらしていただいた皆さま、本当に、本当にありかとうございました。

さて、今回のイベントを開催するにあたって、これまで思いを巡らせていたあれこれを綴っておこうかと思う。

今回イベントをやろうと思ったきっかけは、クラブマン誌から独立してフリーランスになった1998年の旅があったからだった。

その年、フリーになるぞと決意し、まずは旅に出ようと決めた。

離島を巡る旅、フェリーで日本一周、沖縄~台湾~上海~釜山~下関の日本海を巡る旅(当時はそのような航路があった)、小笠原への旅などあれこれ妄想を膨らませていたのだが、フリーになるからには自分に厳しい旅がいいんじゃないかと思い、2月の北海道をバイクでツーリングする旅を選んだ。

厳寒の北海道、しかもチェーンを巻いて宗谷岬まで行くという企画内容にも関わらず、幸いにしてカワサキからスーパーシェルパの広報車をお借りすることができた。

明石~敦賀~小樽~札幌~日本海側から宗谷岬~オホーツク海側を下って紋別、網走~釧路~東京~明石というルートの旅だった。

スパイクタイヤ規制があることを知りチェーンで走ったが、アイスバーンや吹雪、そしてアイシングによるキャブレター不調に悩まされ、一番きついときで時速4キロ程度、速くても雪の上では時速20キロ程度と歩みの遅い旅であった。

気温や日照時間の関係で午前10時ごろから午後2時ごろまでしか走れず、一日に進める距離はわずか40kmほどという日々が続いたが、おかげで自分の旅とともに流氷が徐々に着岸するのを目撃することもできた。

その旅の途中、誕生日を迎えた。

その日の宿は小さな「とほ宿」。夕飯は宿泊客全員で食卓を囲むようなスタイルの旅人宿だ。真冬だから何人泊まっているかはわからないが、誕生日なのにケーキもないのはさみしいなと思い、途中のケーキ屋さんでいくつかのケーキを買い込んだ。

自分で自分を祝ってもらおうだなんて変かと思ったけれど、宿のご主人もほか4人の旅人も、思いがけないサプライズの差し入れケーキを喜んでくれ、大いに盛り上がったのを覚えている。


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それからの20年。

旅、レース、鈴鹿8耐、北海道ツーリング、バイクのショー、デイトナバイクウィークにマン島TTレース、挙げ句の果てに文化人類学でモータースポーツ文化の研究にまで手を出し、興味の赴くままにバイクに浸かってきたのだけれど、立ち止まることだってあった。

とくに2006年はわたしにとって辛い年だった。

何度かの入院や手術も経験した。

数年前、誕生日を病院のベッドで過ごさなければならなかったとき、見事に、見舞いも、電話も、メールも何も来なかったことがあった。

唯一、病院の食事のトレーに「お誕生日おめでとうございます」とあらかじめプリントされた小さな紙切れだけが誕生日を知らせるものだった。

わたしは一人っ子できょうだいはいないし、子どももいない。

病室の天井を眺めながら、自分はこうして一人で死んで行くんだろうなと将来を憂い、さめざめと泣いたことを感情だけでなく身体感覚として覚えている。

むろん、一人で死ぬことは決して不幸だとは思わないが、気心知れた家族や友人が目の前にいないことのあまりのさみしさにおののいたのだ。

わたしは人見知りで、人付き合いも下手くそなのだけど、病室の天井を見つめながら迎えた誕生日もまた、ほんの少しだけ自分を変えたような気がする。

ゆきズムじゃんぼりーでお話したジョン。彼の生き方にも影響を受けた点がある。

ジョンとは、かの有名なジョン・マクギネス選手ではなく、マン島で知り合った親切すぎるお父さん。

ジョンはどこにでもいる普通のおじさんだ。退役軍人で、自営で電気工事業を営んでいたが、リタイア後はマン島TTレースと自分をとりまく人びとをかいがいしく世話することを生きがいにしている(いた)。

ジョンもまた一人っ子で、娘がいるものの離婚したせいもあってやや疎遠になっている。

そんなジョンは、何曜日は誰それさん、別の曜日は誰それさん、というようにローテーションを組んで一人暮らしの高齢の友だちたちのお世話をしていた。それは犬の散歩だったり、銀行でお金を下ろすことだったり、食料品店で小麦粉を買っていったり、そんなようなことだった。

ジョンはそれらを当たり前のようにやっていたけれど、社会の接点はこうして作るものなのだなぁとジョンから教えられたのだった。

それで、数年前に二推の二輪車安全運転指導員の資格試験を受けることにした。資格を取ると、ボランティアで講習会の指導員をすることができるようになる。
長年バイクに関わる仕事をしてきたけれど、そろそろ恩返しするようにしなければなと思っていたところだった。
なにより、今のうちに社会との接点のようなもの作っておかないと、自分のような人間は漠然とこの先ダメなんじゃないか、一生このまま人見知りで人間関係ベタで、ひとりさみしく病室の天井を眺めながら……なんて思い、これまでと違うバイクの世界へ一歩足を踏み入れた。
おかげさまで、まだ3年の新米なのだけど、素晴らしい先輩たちに囲まれて少しずつ吸収している。

閑話休題。

最近はfacebookをはじめ、システムとして誕生日をお知らせしてくれる機能があって、機械的に(……という風に感じる)誕生日を祝うメッセージを送る文化がある。

正直、苦手だ。

なので、ここ数年はフェイクの誕生日を入力したり、誕生日を表示させないようにしていたら、やっぱり、ものの見事に誰からもメッセージ来ない。

そんな愚痴を吐いてたら、友人から叱られた。

それで、祝ってほしければ自分でケーキを買っていけばいいじゃないって思い出して。

フリーになって真冬の北海道をバイクで走って、宗谷岬を走破して、そのあと流氷を追っかけながら走って、小さな宿で見知らぬ旅人みんなに祝ってもらったじゃない。

そんなことを思いつつ企画したのが、今回の誕生日イベント『ゆきズムじゃんぼりー』だった。


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photo by Naoki OKAMOTO

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2017.10.23

週の始めの2時間のおしゃべり

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毎週月曜日は午前中、英語のプライベートレッスンを受けていた。

もともと英語が得意というわけではなかったけれど、文化人類学の研究のフィールドをマン島にしてしまったことで、それなりに勉強はしていたものの、独学での限界を感じていた。

2012年からチーム無限・神電プロジェクトのアドバイザーをすることになり、いよいよ必要に迫られて、英語の講師を探してみた。
何人かの講師にトライアルで会ってみたものの、カリキュラムをしたがる人、ビジネスライクな人、さまざまで、なかなか合う人にめぐり合うことができなかった。

そんな中、デイビッド先生は最初からウマが合った。
初回のレッスンから異例の2時間もの時間、いろいろな話で盛り上がった。

デイビッド先生はイギリス陸軍の退役軍人で、現在の奥様が日本人なので、リタイア後に日本に移住してきたという。在住6、7年は経っていたと思うが、日本語はからっきしダメで、挨拶程度の簡単な日本語しか話せなかった。

いっとき、日本語教室に通っていたこともあるが、某国の受講生の態度が悪いとかで、すぐに通うのをやめてしまっていた。

しかしながら、外国語講師として成り立っていたのは、ボーディングスクール出身のエリートで、軍人時代は海外駐在も多く、グルカなど傭兵と接する機会も多かったこと。

キャリアの最後は刑務所に出向していたそうで、これまた外国人と接する機会が多かったこと。
そして、外国語講師資格も持っていたということで、相手の母国語を介さなくとも英語を教授するスキルを持っていたのだと思う。
先生が日本語を介さなくとも、ほぼレッスンはきちんと成り立っていた。

よく、わたしが英語に詰まると手持ちの電子辞書に頼ろうとしてしまうのだけど、先生はそれを手で制して、

「なんでもいいから英語で知りたいことを説明してみて」

と言うのが定番だった。

レッスンは毎週月曜日の午前中に設定してもらっていた。自分自身、週のアタマに気持ちを切り換えられる何かが欲しかったからだ。

レッスンは駅の近くのカフェで会話しながらというかたち。先生はたいてい、時間よりうーんと早くに到着し、iPadで新聞や電子書籍などを読みながら優雅に朝食を摂るのが定番だった。

「今日もバイクかい?」

と笑顔で迎えてくれるのが、これまた定番の挨拶言葉だった。

席に荷物を置き、自分の飲み物を注文し、席に戻ると「先週は何してた?」から始まるレッスン──、というか、ほとんどおしゃべりに近い会話が始まる。
会話しながら、知らない単語、間違えていた言い回しなどをノートしていく。

仕事や研究の必要に迫られて、英作文のチェックをしてもらったり、スピーチの発音やアクセントのチェック、英文読解などなど、その時々の課題に付き合ってもらうこともあったけれど、もっぱらレッスンはタイムリーな話題に関するおしゃべりから広げていくことが多かった。

先生の博識ぶりは半端なかった。

先生はバイクに乗らない人だったけれど、ノートンの話をしようが、BSAの話をしようが、マン島の話をしようが、キャブレターの構造の話をしようが、なにからなにまで枝葉を広げてくる。

ときどき思い出したように、言い回しや文法、発音やアクセントの間違えなどを指摘してくれるのだけど、先生が一番気にかけてくれていたのは、「いかに伝えるか、伝わるか」だったと思う。

よく、「イギリス人には伝わらない」ということを言っていた。
たとえば、中学校のことを日本ではjunior high schoolと習うけれど、イギリスでは中学校の概念はないからそれでは伝わらないとか、そんなようなことだ。

英会話のプライベートレッスンというと、1回30分程度が普通なのだけど、先生はまったく時間を気にしなかった。
気にしないどころか、1時間半、いや2時間に迫ろうかというところで、いつもわたしが「先生、そろそろ時間が……」と声をかけないと、話が途切れない。それくらい、先生との“おしゃべり”はとても楽しかった。

2時間ものレッスンだから、さぞかし金額が高いだろうと思われるだろうけど、レッスン料も破格の安さだった。
ちょっと言えないくらいの金額。交通費とカフェの朝食代は先生の自腹だから、ぜんぜん儲けにならなかったと思う。
渡されたレッスンフィーは袋のままカバンにしまい、帰りに銀行に預けてしまうのだという。軍人恩給があるから、レッスンフィーは銀行に預けて奥様のために残すのだそうだ。

先生と毎週会うようになって6年。
単なる先生と生徒というより、その関係は友達に近くなったのだと思う。
普段のうっぷんが溜まっているのか、皮肉が粋と思っているイギリス人ならではなのか、ときには、コノヤローと思わないではない言動もあった。

先生が一番エキサイトするのは、交通問題。

「なんで日本人は歩行者を優先しない! これだから日本は……(ぶつくさ)」

こうなると、手に負えない。
わたしは心の奥で、

(これは英語のレッスン、これは英語のレッスン……)

と念じて、先生の日本&日本人バッシングの嵐が治まる待つ。
日本人と結婚し、日本に移住してなお、イギリスさいこー! なデイビッド先生。
マン島ですら馬鹿にする態度に辟易しつつも、いかにもイギリス人っぽいなと苦笑するしかなかった。

ときには、口論に近いやりとりになることもあった。
そんな経験をも通じて、ようやく英語が苦にならなくなった。


奥様やその子供たち、その旦那さん、最近生れた孫。家族のことをよく話してくれた。
物心つく前に父親を亡くしたからか、家族をとても大切にし愛している先生だった。

「ゆきがボクの奥さんじゃなくてホントに良かった!」

やれレースに出るだの、遠方に出張だの、北海道ツーリングだの飛び回っている話をすると、決まってこういう風に言うのだった。

9月のレッスンのとき、初めて奥様との馴れ初めを話してくれた。
ちょっとここには書けないのだけど、運命的な出会いだったのだと思う。大恋愛だったのだと思う。
日本に移住する決断はたいへんなことだったと思うけれど、その分、“幸せ”を大切にしていたと思う。
先生の暮らしぶりはとても質素で、旅行にも行かず、散財もせず。
何十年か前のベルスタッフを丁寧にメンテナンスして着こなしていたり。

10月は取材やら締め切りやらで忙しくて、しばらくレッスンを休んでいた。
次のレッスンの予定をいつものようにメールしたのだが、いっこうに返事が来なかった。
かなりマメに連絡をくれる先生なのにどうしたのだろう……そう思っていたとき、メールが来たのだけれど、いつもと違って、日本語のメールだった。

頭が混乱した。

奥様からのメールだった。
10月5日に心筋梗塞で亡くなったとの知らせだった。
なにかの手違いで連絡が遅くなってしまったとのことだった。

本来なら今日、10時からいつものカフェで先生に会えるはずだった。

今週予定されている外国人とのミーティングの予習のおさらいをしてもらうはずだった。
今度発売されるClubmanの話もしたかった。
また来年のマン島TTに向けて、毎週毎週、レッスンという名のおしゃべりをするはずだった。

葬儀に出られなくてまだ信じられないけれど……。

ゴボウが大嫌いだったデイビッド先生。今までほんとうにありがとうございました。

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「日本人ってすぐピースするよね」

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2017.09.12

ナンバーが付いていないバイクがあったので通報してみたら

とある駅前のバイク置場にバイクを停めましたら。

原付エリアに、目立つカスタムというか族車でナンバーの付いていないバイクが置いてあったので、もしや盗難車? と思い、交番に通報しに行きました。

わたしは盗難車らしきバイクを見つけたら、必ず通報するようにしています。
地元警察に、少しでもバイクのこと気にかけてもらいたいし、気にかけている人がいるんだって知ってもらいたいからです。


警察官さんに、そのバイクはどこにありますか、一緒に来てもらえますか、と言われたのですが、めんどうなのでバイクの駐車位置番号と特徴を伝えまして。

「〇〇〇ってメーカーの×××ってバイクなんですけど」

「おまわりさん、バイク詳しくないんだよな~」

などというやりとりのあと、フルネームと連絡先番号を聞かれました。

通報者の個人情報をなんで言わないといけないんだ? って顔に出てたんだと思います。
間髪入れずに、

「あー、これ、もし盗難車だとわかったときに、遺留品の発見者ということで、もう少し詳しくご住所とか聞かないといけないんですよ」

と説明されまして、すかさず納得いたしました。

わりと丁寧に応対してくれたあと、

「それでは、盗難車かどうか判明しましたから連絡行くかもしれません」

と担当警察官さん。

すぐに、確認に行ったみたいでしたので安心しました。

その後、30分くらいしてすぐに着信がありまして。

「〇〇と××の間に置いてある▽▽色のバイクですよね?

いま見ましたらナンバーが付いてまして。

照会したら、ちゃんと登録されている車両で、ナンバーも車両番号も合ってまして、持ち主も判明しましたのでご安心ください!」

とのこと。

持ち主さん、盗難車だなんて疑ってごめんなさい。

なんかの事情でナンバーが落っこちた? かなんかで、たまたま取り付け直す前だったのかもしれませんね。

今回対応していただいた神奈川県警の警察官さんも、きちんと対応していただいてありがとうございました。


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2017.09.07

満面の笑みで手招きされた~ニューモデルを新車で手に入れることの喜び

ここ数年通っている、とあるバイク関係の集まりで。

けっこう遠くの方から手招きされたので、なにごとかと思って近寄ると。

もう、こぼれんばかりの満面の笑み。
言いたくて言いたくて仕方のないニヤケ方。

「買っちゃった♡」

年の頃、がっつりバイクブーム世代のにーさん。

何買ったんすか、と聞かざるを得ないこの状況(苦笑)。

いや、わざわざわたしに報告しなくても(苦笑)。


「SPじゃないほうだけど♡」

ええっニューモデルのスパスポですかと苦笑いするしかない。

だって、自分もH2買ったときに散々言われたもの。


(そのパワー、公道じゃいらないっしょ)

(SS疲れないっすか)



「どうせすぐニューモデル出るんじゃないっすか~~(ニヤリ)」

「エスセンダブルアール、めっちゃ良かったっすよ(ニヤリ)」

とひとしきり冷やかしても、にーさんのニヤニヤは止まらず。

「もう最後だと思ってさ~。思い切って買っちゃった♡」

五十路ともなると、いつまで健康体でバイクに乗り続けていられるかのカウントダウンが始まる。
“上がりバイク”に乗り換える前に、せめて憧れのバイクにもう一度。

なにより、オンタイムにニューモデルを新車で所有することの喜び。

彼の手招きはまだしばらく続くのだろう。

いまだにH2を自慢したくなるわたしと同じく。


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2017.04.04

ニンジャの調子が整わず、京都にたどり着けませんでした……

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前々から誘われていた京都での集まりでしたので、宿泊を伴う遠出ならニンジャ! (GPz900R)と思い、2月ごろからメンテナンスを進めていました。

正確に言うと、一昨年からなんとなくオカシイな?という症状があったので、去年から換えた方がいいパーツは新品に取り替え、あれこれメンテナンスもして万全かと思われたのですが……。

結論から言うと、浜松手前で京都行きを断念しました(涙)。

簡単に言うと、“リザーブに入るのが異常に早い”。

症状からすると、電装でもなく、エンジン内部も違うかもという感じ。
なにしろ、数千キロ走ってて症状は出るのに復活する、を繰り返しておりまして、いざバイク屋さんに預けても症状が再現されないというのがやっかいなところ。

でも、約24万km同じ車両に乗り続けているので、本調子でないというのはイヤ~な感じ。

けっこう山奥に行く予定でしたので、悩んだ末、浜松手前で引き返すことにしました。

雨の中、往復約450km走っただけの飲まず喰わずのツーリングというか走行というか苦行と言おうか。

どっか途中で美味しいものでも食べてくればよかったのかもしれないんですが、バイクの調子が悪いとそんな気分にもならず。

家で体重測ったら2kg減ってました。
DE耐が控えてますので、よいダイエットになりました(苦笑)。

というわけで、夕飯は手土産に買っていた横浜名物崎陽軒のシウマイとあいなりました。


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大きな箱を二つ買ってあったので、今日もシウマイ、明日もシウマイ♪ です(苦笑)

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2017.03.30

オイル交換したらエンジンオーバーホールしたみたいになった件

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総走行距離23万kmも走ってると言うと、たいていの方が、

「何回オーバーホールしたんですか」

って尋ねられます。

わたしの場合、壊れたら直せばいいや派なので、10万キロで中学生に盗まれてエンジン壊されたときの1回しかオーバーホールしたことがありません。


とはいえ、このごろニンジャ (GPz900R)の調子がいまひとつで、あれこれメンテ、修理など進めていました。

症状は、

・冷えてるとエンジンがかかりにくい

・かかっても1発火が入ってない

・まだリザーブになるほど距離を走ってないのに、60km~150kmくらいでガス欠みたくなる
(わたしの走り方の場合、だいたい200~230kmくらいでリザーブに入る)

・で、エンジン止まってしまって、再度始動しにくい

こんな感じでした。


まあ、1989年式のバイクですし、かれこれ23万kmも乗ってるし、エンジンオーバーホールしてから13万㎞も乗っているから、さすがに再びエンジンのオーバーホールか? と覚悟していたものの、相談に乗ってくれたT.T.motoの高山さんが「エンジン開けるより先にできることもあるんじゃないか」とご指南いただいたので、彼の見立てに沿ってメンテ・修理していくことにしました。

まずは、気になっていたキャブレターから。

だいぶ前(20万kmくらい?)に「もう中身が磨り減っちゃってるから同調とれません!」とエムガレージの村野さんに指摘されていたので、今回は以前に中古でいただいてあった純正のキャブレターに交換することに。

とはいうものの、少しマシそうな中古キャブもだいぶ熟成が進んでいて、結局、よさげなパーツを選んでニコイチで組むことに。


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それと、イグニッションコイルが腐ってるんじゃねーか、ということでこれは新品に交換。
同時に、ずいぶん以前(20世紀かな~)に社外品にしたプラグコードも純正に交換したかったんですが、プラグコードもプラグキャップも純正品がすでに出ないとのことで、NGKのものを使うことにしました。

ただし、サイズが合わない問題が勃発してあれこれたいへんだったみたいです。

そんな感じで電装系をけっこう交換したわけなんですが、それでも冷えてるとエンジンかかりにくい&1発しんでる問題は解決しませんでした。

もう一つの可能性は、

オイル上がりorオイル下がり」。

わたしのGPz900Rはフルオーバーホールした際にワンサイズオーバーのピストンに変えてます。

それから13万km。さすがに、いろんなところがすり減ってるでしょう。

T.T.motoさん曰く、「クリアランスが大きすぎるのと、たぶんオイルが合ってなくてエンジン始動のときに余分な動きが出てプラグが被ったりして1発火が入らなかったりするのではないか」とのこと。

とりあえず粘度の高いオイルに交換して様子を見たらいいんじゃない、とのこと。

そんなわけで、いままで使ったことがないオイルの銘柄に交換しに行ってきました。


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果たして、これまで使っていた高級と言われるオイルは、わずか3000km(わずかというほどでもないか?)でシャビシャビのサラサラになっちゃってて、受け皿から跳ね返ってあたりがオイルまみれの惨事になるほど。

なるほどエンジン不調の原因はこれだったのかーと納得した次第です。


そんなわけで、新たに粘度が高いというオイルに交換してみたところ!!

エンジン始動時の不調はすっかり直りました。

なんだか音も変わったし。

そもそもメンテしてあったキャブレターの同調、プラグコード交換などとも相まって、極低回転から至極なめらかで力強い加速をする……気がします。

オイル交換しただけで、エンジンをオーバーホールしたみたいに気持ちいいエンジンになっちゃいました。

とはいえ、オイルは対処療法でしかないので、近いうちにオーバーホールも視野に入れなければ。

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2017.01.01

2017年明けましておめでとうございます

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2016年はいろいろありました。


スタートはゴール、

ゴールはスタート。

気持ちを新たに2017年を始めようと思います。

本年もばりばりバイクに乗ります!

どうぞよろしくお願いいたします。

(※写真はマン島TTマウンテンコースのstart&finish)

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2016.12.30

OKストア港北DC 店の年末年始営業時間

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今年もこの季節がやってまいりました\(^o^)/

2階の改装も終わってドラッグストア化し、1階の改装も終わって少し導線が変わったオーケーストア港北DC店。

何げに2ストオイルが安かったり、ベーシックなメンテ用品が激安だったりして、何かと重宝しております。

そんなOKストア港北DC店の年末年始営業時間と休業日は以下の通りです。

30日まで 平常通り 8時30分開店~21時30分閉店

31日 8時30分開店~20時閉店

1日~3日 休業

4日以降 平常通り

とくに大晦日の閉店間際、20時前の阿鼻叫喚が見どころです(嘘)。


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2016.08.13

コベントリーの清水良三さん、というか家具屋さん

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トライアンフのお店、コベントリーの清水良三さんに初めてお会いしたのは筑波サーキットだったか、クラブマンの編集部だったか。

当時、クラブマン編集部は桜新町の本社からちょっと離れて、総務や経理や他の編集部からは隔離された旧本社社屋(と言っても3階建てのこじんまりとした一戸建て)に移り、のびのびとやっていたような記憶がある。

ちょっとだけセットバックしてたからクルマやバイクでも来やすく、いろんな人が用事もなくプラっと遊びに来たりする、そんな雰囲気のなか仕事をしていた。

家具屋さんこと清水良三さんもそのうちの一人で、ふらっと遊びによくやってきていた。

清水さんと言えば、その頃すでに旧車のトライアンフで筑波を10秒で走るという話題の人だった。

あるとき、「もう家具屋畳むからよぉ」と言いながら、いつものようにプラっと遊びに来て、家業を辞めてトライアンフ屋さんを始めるという仰天プランを聞いたのも、クラブマン編集部でのことだったと思う。

いまでこそ自由が丘界隈はオシャレ家具店でひしめいているけれども、バブル崩壊の直撃を喰らった清水さんは、資産を活用する方向に素早く転換して、早期リタイヤじゃないけども好きなことして暮らすんだ、というようなことを言っていた。
もともとバイク屋さんじゃないのにだいじょうぶ? とちょっと心配になったけれど、清水さんはあの独特のダミ声&江戸っ子弁の人懐こさでファンを増やしていき、藤井フミヤさんはじめ有名人も出入りするお店になっていった。

清水さんは猛烈な生沢徹さんファンで、自称「おっかけ」。
たぶん清水さんと生沢さんは同い年くらいだと思うけど、清水さんはあくまで生沢さんのことを雲の上の尊敬すべき存在として接していた。そんな生沢さんも清水さんを信頼していて、あまり取材を受けないと聞いていた生沢さんに清水さんがアポを取ってくださり、生沢さんのご自宅での取材にこぎ着けた……ということもあった。


クラブマン時代、盗難に遭ったGPz900Rを知り合いのバイク屋(モドキ)に修理に出したら、結局詐欺のようなことに遭い、直るどころかむしろ壊れて戻ってくるという目に遭ったとき、「いいバイク屋があるから紹介してやんよ!」と助け船を出してくれたのも清水さんだった。

連れて行かれたバイク屋さんは、バイクよりもガラクタ(失礼!)の方が多い一見さんが入りにくいお店で、妙に眼光スルドいメカニックさん(現・ハラファクトリーの原さん)と、まだあどけなさが残る20歳そこそこのメカニックさん(現・モトショップMガレージの村野君)がいた。
オーナーで店長のAさんはカメラにしか興味がないみたいな人だったけど、カメラの棚にはおびただしいポラロイドやらヴィンテージの3Dカメラやらが並んでいたり、店の片隅に古いトライアンフ?だかのオートレーサーが飾ってあったりして、その筋の人にはたまらないお店だった。

清水さんの紹介で無事にGPz900Rの入院先が決まり、担当メカはベテランの原さんではなく、村野君に決まったのだけど、たびたび

「コバヤシさん、事件ですっ!」

と電話がかかってきては、


・スタッドボルトがねじ山ごとなくなってて落ちてきた

・新品に交換されたはずのカムシャフトが折れていた

・ウォーターポンプが逆に組まれていた

みたいなトンデモ報告が続いたのだった。

あのときハタチそこそこだった村野君は、

「いまでも夢にうなされる」

といい、いまもニンジャをメンテに出すと修理完了してからすぐ「その後いかがですか?」と、お味の方はいかがですかってウエイターさんか聞きにくるような高級レストランのようなことをしてくれる。

おかげさまで、10万キロで盗まれてエンジンともどもボロボロになってしまったニンジャはその後、ノーOH(エンジンOH後14万キロ)で元気に24万キロも走り続けている。

そして、原さんはカリスマZレストア士と化しているし、村野君はCBRカップのチャンピオンを輩出するメカニックに成った。
なにより、二人とも走ってもめちゃくちゃ速い。

清水さんの推薦はホンモノだった。

フリーになってたまたま、清水さんちんとこに会社があったサインハウスさんの仕事をするようになり、会議で行くたびに、いろいろな件の相談に乗ってもらったりアドバイスをいただいたりしていたのも清水さんだった。
仕事の手を止めさせて申し訳なかったのだけど、小一時間は当たり前、長いと2時間も3時間もおしゃべりは尽きなかった。
いろんな情報を仕入れるのも清水さんからだったし、漫画家の本田恵子さんの存在を知ったのも清水さんの情報だった。

清水さんの話で印象的だったのは、とても愛妻家だったということだ。
「かーちゃんが先に逝くなんてありえねぇ」って言ってて、だからって清水さん、もう……。

人見知りはげしいナベゾ画伯こと渡辺和博さんもお気に入りだった清水さん。
取材で紹介したあと、何度も遊びに行ってたみたいで。

クラブマンで連載してた「ヨーイング・ゾーン」にもたびたびキャラとして登場していた。

そんなわけで、担当編集者としてわたしが手がけた

エンスー病は治らない

を引っ張りだしてきてみた。

ナベゾ画伯のまえがきのことばが胸に刺さります。

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清水さんの葬儀は本日お通夜、明日告別式です。

通夜式

8月13日(土)午後6時~7時

葬儀・告別式

8月14日(日)午前10時~11時

桐ヶ谷斎場(1階鶴の間)


続きを読む "コベントリーの清水良三さん、というか家具屋さん"

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