マン島TT

2012.04.18

[お知らせ]4月27日(金)横浜で開催:TTサポーターズクラブ日本支部イベント

下記の通り、来る4月27日(金)19時より、マン島TTレースのTTサポーターズクラブ日本支部のミーティングを、横浜は黄金町の「試聴室その2」で開催いたします。

Ttsc

・マン島TTレースに興味のある方
・マン島に行ってみたい方
・マン島やTTの情報交換をしてみたい方

などなど、TTSCメンバーに限らず、どなたでも参加OK! のイベントです。

イベント時には、マン島やTTの資料を展示するほか、わたくし小林ゆきによるフォト&トークライブと、DJ ZeckさんによるDJプレイを予定しております。


マン島TTレース サポーターズ クラブ 日本支部発足記念イベント-TTSC Japan Meeting 2012-

日時●2012年4月27日(金) 19時~22時

場所●試聴室その2
横浜市中区黄金町2丁目7番地先 (〒231-0054)
TEL :045-251-3979(13時~18時)
京浜急行 黄金町駅 徒歩3分
アクセス詳細はこちらのリンク

料金●チャージ・フリー(1drinkオーダー~)

イベント内容●トークライブ:小林ゆき(モーターサイクルジャーナリスト)、是恒 邦通
DJ:関川 悟(Zeck)

イベントのfacebookページ TTSC日本

グレートブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置するマン島で 105年に及ぶ開催の歴史を持つマン島TTレース。
この度は島の文化として根付き世界中のモーターサイクル・ファンを魅了する公道オートバイレースのサポーターズ クラブ TTSC日本支部の発足を記念したイベントを開催。
同クラブの代表でありバイクを社会と文化で語るライダー&ライター小林ゆきによるフォト・ムービー&トークライブを行います。

会場にはマン島TTへの渡航経験が豊富なTTSCメンバーも集結。
マン島に行った事がある方はもちろんこれから渡航される方やTTに少しでも興味がある方にマン島への行き方や具体的な観光の紹介や提案、相談などお気軽にご質問下さい。

当日ご希望の方はTTSCメンバーズクラブの入会受付もします。年会費は3000円を予定しております。

会場である試聴室その2は日々ミュージシャンやDJ フォトグラファーといった様々なアーティストが活動拠点としているスペースです。
懇親会ではDJ が選曲する音楽をバックにおいしいフードとドリンクで交流しましょう。
気軽に遊びに来て下さいね!

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2012.02.22

TEAM無限がマン島TTレースのTT-Zeroクラス(電動バイク中心)に参戦決定! そして、松下ヨシナリ選手も再度参戦決定!

昨年のマン島TTは松下ヨシナリ選手の参戦で、だいぶ日本のバイク界にもTTの話題が登ることが多くなったように思います。

さて、2012年のマン島TTを前に、日本のモータースポーツ界にとって大きなニュースが二つ飛び込んできました。

一つは、あの「無限」がTT-Zeroクラスに参戦すること。
もう一つは、松下ヨシナリ選手が再度、参戦決定したということです。

日本のチームが複数参戦するのは、福田照男選手が250ジュニアに、遠藤智選手が250ジュニアと500シニア、1000クラシックに、また五味淵安彦選手が1000クラシックにエントリーした1984年以来28年ぶり

(1998年には前田淳選手と小峰猛彦選手が参戦しているが、小峰選手はHONDA BRITAINからの参戦でプラクティスで転倒して本戦には出場していない)

まずは、TEAM無限公式発表から。


●The Isle of Man Tourist Trophy Race(マン島TT)

 M-TECは英国のマン島で行われる「マン島TTレース」において、「TT-Zero」クラスに「TEAM無限」としてオリジナル電動バイクで参戦する。

 「TT-Zero」クラスは動力にCO2を排出しないゼロエミッションの機構を持つことがレギュレーションで決められており、約60km島内一周をタイムトライアル形式で競うレースで、この活動を通じ若いエンジニア育成など将来の技術力向上を行う。

マシンやライダーについては詳細はまだ発表されていませんが、F-1まで参戦してきたTEAM無限が満を持しての参戦ということで、どんなマシンを作ってくるのかたいへん楽しみです。

マン島TTの公式サイトには以下のニュースが。

Mugen confirms team for 2012 SES TT Zero challenge(無限は2012年SES TT Zeroに参戦を発表)

2012年2月16日木曜日

世界的に有名なエンジン・ビルダー・無限は、2012年のSES TT Zeroレースに参加することを公式発表した。TT ZeroはMonster Energyが冠スポンサーとなる2012年マン島TTレースの一部として開催される。

全て新設計のオリジナル電動バイクで参戦するこの日本の企業は、本田博俊氏(ホンダ創設者・宗一郎氏の息子)によって1973年に創立された。

無限はフォーミュラ1を含むモータースポーツとの関係の長い歴史がある。ジョーダン、プロスト、ロータス、リジェのようなチームとともに1992年から2000年に参戦、グランプリで4勝している。フォーミュラ3000で1990年と1991年に優勝しているエンジンも製造している。
現在、無限は日本のGTカーとフォーミュラ日本に参戦している。また、世界ツーリングカー選手権にホンダのエンジン・パートナーとして活動することも発表された。

同社のモーターサイクル・スポーツの歴史では、鈴鹿8耐でロジャー・マーシャルとジョーイ・ダンロップが、世界モトクロス選手権でジョニー・オマラが参戦した。

SES TT Zeroレースは、CO2を放出しないゼロエミッション・エンジンのオートバイに参加が制限され、1ラップのタイム・トライアル方式で行われる。
マン島政府は、1周37と3/4マイルのマウンテンコースの平均速度を最初に時速100マイルを超えたチームに、1万ポンドの賞金を出すことにしている。

チーム無限の勝間田聡氏は、次のようにコメントした。

「我々は将来のテクノロジーを使用するため、次世代のエンジニアの教育とその準備としてこの優れたイベントを熱望しています。我々はマン島の日本のメーカーの長い歴史に加わることに非常に興奮しています」

同社は、日本と英国でのテストの計画を前に、まもなくライダーを発表する予定だ。

なお、WIREDには、本田技研工業が東京モーターショーで発表したRC-Eで参戦するかのように書いておりますが、これは誤報でしょう。参戦するのなら、ホンダの2012年Hondaモータースポーツ活動の概要で発表されるはずですが、マン島TTレースについては触れられていません。
しかもWIREDには「無限は本田技研工業のレース部門である」とか書いてあって、この認識からして誤り。

次に、松下ヨシナリ選手も公式に2012年のマン島TTに参戦を発表しました。

松下ヨシナリ、2012年もマン島TTに参戦します!

とくにTT Zeroのチームは日本のチームということで、無限、そしてディフェンディング・チャンピオンのモトシズとの対決が今から楽しみになってきました。

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2012.01.18

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~編集後記

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その3
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その4
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その5
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~最終回

新春特別企画としまして、6回に渡ってお送りしました、“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさんの超ロングインタビュー。いかがでしたでしょうか。

もともとブログを書くためにインタビューしたわけではなかったのですが、雑誌記事(英文)にするにあたって、全編テキストに起してみたところ、これを.お蔵入りしてしまうのは、もったいない! と思い、ご本人にも快諾していただき、このような形で発表することができました。

とはいえ、ここに至るまでには、自分の中での葛藤のようなものがあり、今日は編集後記として心のうちをしたためておこうかな、と。

(このあと事故の話が続きます、念のため)

続きを読む "松下ヨシナリ・ロングインタビュー~編集後記"

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2012.01.12

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~最終回

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その3
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その4
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その5

新春特別企画としましてお届けしております、松下ヨシナリさんの超ロングインタビューも、いよいよ最終回。
再起不能かと思われた大怪我を克服し、二度目のマン島TTレース挑戦を果たした彼にとって、マン島TTとはいったいどんな存在なのか。
“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさんへの超ロングインタビュー最終回をどうぞ。

* * * * * * *

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──二度目のマン島、走り終えての感想はどうでした。

「「良かったなー」って思いました。

それこそ、実は学チャンとショーヤが死ぬ間に、ミニバイク時代の友だちが癌で死んでるんです。
あの年、3人死んでて、超、悲しくって。でも、お前らやったぞって感じだったっすね。

あと、母親も父親も死別していないんで、むかーし、死んだ友だちとか、なんとなーく走りながら思い出して、よしよしもうちょいもうちょいって思って。無理せず行こうって思って。
今回、ほんとに無理せず行こうって。かなりリスクを冒さない方向で。

で、きっと前だったら、あんなガタガタになってたら、イライライライラしてどんどんどんどんアクセル開けちゃったりしたんだけど、押さえるところは押さえて。
だから、タイムも遅かったし。まぁ全体に1年目より上がってるんですけどね。

でも、自分の目標というか、イメージよりタイムは遅かったなー。あの体制で、あのコンディションのオートバイだったら、ぜんぜん18分台で回れてると思うんだけど。上言ったらね。キリないけど、レースってのはそういうもんなんだけど。
でも、一応、自己ベストは4秒以上更新して。19分30秒フラット。まあまあ良かったのかな、と。

でも若干、中途半端な気持ちなんですよね。だからそれが、TTレーサーが毎年、あそこに挑む理由なのかもしれない。
あそこで、オレはもう少しこうできたかもしれないとか、そういう後悔が、ちょっとずつ蓄積されて、また次も行ってしまうんですよ、あそこには。で、やり甲斐があるし、何かをかけるべきところだし。すごくいいオートバイの島だし。夢のようなところじゃないですか。
そういうことが総合的に合わさって、またTTライダーを次の年にTTに向かわせてしまうんじゃないかなって思う」

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──今後の目標は?

「今後の目標は決まってないです。

今年、24時間に2回も挑戦させてもらって、一回も完走できてないので、来年はもしチャンスがある状況に自分でもっていけるなら、どちらかの24時間に出て必ず完走したいですね。それは絶対にやらなきゃ気が済まないですね。
ほんとに悔しかったんですよ。完走できなかったのは。

マン島TTは、出たいという希望は捨ててはいません。出たい……なぁ(笑)」

──あなたにとってのマン島TTとは?

一周として同じ周回がないんですよね。必ず毎周コンディションが若干違うんですよ。
それは、なんか海とか山に似てるなあと。

別にオレ冒険家でも登山家でもないし、サーファーでもないけど。絶対に同じコンディションがないという意味では、ほんとに冒険だし。

で、僕はほんとうにもう、いろんな人に言ってるけど、あれはもうレースじゃないですよ。モーターサイクルレーシングからは逸脱した存在で、あれはもう冒険カテゴリーですね。エクストリームだと思ってるから。

順位は別にいいんですよ。でも、順位はいいけど、自分への挑戦だから、前のラップより自分を高めたい、タイムを削りたい、っていうのが必然的に順位と平均タイムに現れるだけの話

完全に山登りに近いですね。

なんであんなところに苦しい思いをして登るのか、僕は意味がぜんぜんわからないですけど、でも、トレッキングとかハイキングとか好き。やっぱり、あの登り切ったときの達成感っていうのは、何ものにも変えがたいものだと思うし、とくに、高峰を登った人とか、困難であればあるほど、その人はアドレナリンが出ると思うし、それに限りなく近い存在なんじゃないかと思うんですよ。
そういうのを、ロードモデルのオートバイで表現できる唯一の場所だと思うんですよ。

唯一、最高のオートバイで冒険ができる、世界でたった一つの場所であり、フィールドなんだと思うんですよ。誰に聞いてもそう言うと思いますよ。

でも、デブのおっさんとかに負けるの悔しい(笑)。BMWのおっさん、アイスバレーの(※マン島TTレースだけでなく、アイルランド公道レース選手権の各地で参戦を続けている、とあるライダーのこと)。

悔しい~。あれ、キレのあるデブなんだなー。なんであんなのに負けるんだろう(笑)。目と感覚が違うんだと思う。

あいつ、やっつけたいなぁ(笑)」

(完)

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2012.01.10

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その5

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その3
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その4

新春特別企画としましてお届けしております、松下ヨシナリさんの超ロングインタビューも、いよいよ佳境に入ってまいりました。
身近な人たちの“死”が、マン島TTレース挑戦へのモチベーションになったと語る“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリ氏。
マン島TTレースに二度目の挑戦を果たした昨年のインサイド・ストーリーをお届けします。

* * * * * * *

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母の死、鎌田学の死、富沢祥也の死──。 再起を危ぶまれる大怪我をしてもなお、「もう一度、TTを走りたい」との決意。 その思いの実現は、生きるとは何かを問い直す、松下ヨシナリなりの手段ではなかっただろうか


──2回目のTT参戦は、どういう経緯で進んでいったんですか?

ショーヤ(富沢祥也)の事故がほんとにショックで。
ほんとにちっちゃい頃から知ってるし。
タカ(中上貴晶:2011年全日本ロードレースGP2クラスチャンピオン)とショーヤは、お父さんとお母さんは同い年だし。ほんとにショーヤとは仲良くしていたし。葬式は頼んで手伝わせてもらって。

(そのとき)絶対(TT)やろうって思って。バイクどうとかじゃなくて、やるっていうところから決めました

で、伊丹っちのTT挑戦の前に学(ガク)ちゃん(鎌田学)が亡くなってるんですけど。

で、学ちゃん亡くなって、(マン島に)伊丹っちの応援行って、そのときに、実はイアン(イアン・ロッカー:TTライダー)に、「もしオレが来年オレが出たいって言ったら、イアンまた手伝ってくれる?」って聞いたんです。直接本人に。
ま、(前回参戦時の転倒を)直接謝りたいってのもあったんですけど。迷惑かけてゴメンねとか、当時迷惑かけた人たちとか、病院のナースとかにも挨拶行って。

そういうのがあって、(マン島渡航は)伊丹っちの応援半分、半分は自分の用事を済まそうと思って。

そしたら、イアンはチームに若手二人入れてるし、コナー君(コナー・カミンズ選手。マン島在住の若手有望選手)の事故のあとだったんで、カワサキとも契約して翌年だし、ちょっと何とも言えないって。いや、もしかしたら多分無理かもしれないっていうような言い方されたんです。別にお前と組みたくないとかじゃなくて。
イアン、ありがたいことに俺のこと“友だち”って言ってくれるからね。ベストフレンドだって言ってくれるからね。お前とは友だちだけど、来年のお前のTTは僕は手伝うことはできないと思うって。

で、どうしようかな、って思ってて、帰って来て。で、ショーヤの事故で、もうやろうって決めてて。

で、戸田さん(戸田隆G-TRIBE代表。サンデーレースから全日本、鈴鹿8耐までマルチにこなすトップライダー)とかいろいろ周りの人に相談したら、「じゃあビーエムとかいいんじゃないの?」って言われて。
「そっか!」って。(スーパースポーツモデルの)S1000出たし。
リコなんちゃらっていうヤツ(リコ・ペンツコファー選手:ドイツ人ライダー)が、突然、(S1000でマン島の)シニア(TT)でとんでもねぇタイムで、順位で走ってたなあと思って。そう言えばアイツ。アイツすげーと思って。
で、写真ひっくり返して、あぁあぁそうそう、コイツ、コイツと思って(笑)。

バイクは自分で用意して行こうと思ったんですよ。自分でバイク用意して、バイク作って向こうに持っていこうと思ってたんですよ。で、ストック仕様チョボチョボみたいな感じの仕様で持ってけば、なんとかなるんじゃないかなって。あんまり、深く考えてなかったんですけど。

(BMW)ジャパンさんに、車両2台のレンタルは取り付けてたんですよ。けっこう早い段階から。早いって言っても12月くらいですけど。

バイク作り方の方向性を知りたいから、本社のモータースポーツのマネージャーに、マン島はどんなセットしてる? どんなパーツを選んでる? ってアドバイスが欲しいってメールを打ってくれってお願いしたんですよ。
そしたら、そんなのわからない、でもって、リコを紹介してくれたんです。ヤツはみんな教えてくれるよって。

で、リコから連絡きて。で、聞きたいことを箇条書きして送って。
そしたら、「マン島なんて250キロでモトクロスするようなところなんだから、セッティングもクソもねぇ」って返事が返ってきて(笑)。これは、リアルにそういう風に書いてあったんですけど(笑)。

で、来年、自分のチームを立ち上げることにしたんだ、と。ちゃんとしたチームで世界耐久を闘って、僕はTTとマカオGPを闘うことに決めてるから、一緒にやろうぜって。

超ミラクル起こったよ!」って!

まぁ、そこそこきちんとした持参金は必要で。ちょっとじゃなくて、がっちりした金額なんですよ。
でも、こっちでS1000を2台レーサーにして輸送すること考えたら、トントンかちょっと高いくらいなって。
でも、リコのノウハウが入るし、メカニックも世界耐久を闘うメカニックが来てくれるって言うから、いやトントンじゃなくてこっちのがお得かなって。ぜんぜん即答で、いいよ、それでって。

で、またそっからスポンサー獲得活動で。

東日本大震災に見舞われるも、世界選手権耐久ロードレースシリーズ・ボルドール24時間耐久に急遽、参戦

世界耐久も、ほんとに笑い話ですけど、出るつもりはぜんぜんなかったんです。

4月に、ちょっとテストに来なよって。タイヤも違うんですけど。
オレ、ダンロップなんですけど、「TTに近いストック仕様でボルドール24時間耐久の公式予選の前に練習走行があるから、それで走れるよ。お金要らないから来なよ」って。そんなこと言われたら行くじゃないですか。

行くって決めてから地震東日本大震災)が来たんですよ。
やっべー、どうしようって。一瞬、マン島TTなんてやってる場合じゃないかなって思ったんですよ。
そしたら、かなりいろんな人から、それこそスポンサーになってくれた人たちから、「ばか、なんだよ、行かなきゃダメだよ。こういうときだから行くんだよ」って。募金とか、そういう救助活動とか、そういう活動は、そういうことができる人がやるから、お前はお前でできることをやりなさいって。そうだよなって。

で、予定通り、ボルドールに行くんです。

行く前に、酒井大作君と寺本幸司君と飲みに行くんです。大阪で。

そしたら、寺本君と酒井君が、エントリー用紙持ってきてて、「松下さん、第2ライダーで登録になってますよー」って。
聞いてないけど(笑)、って。
そのとき、初めてエントリーされてることを知って(苦笑)。いやいやいやいや、オレ、出るの聞いてないし。「でも、エントリーしてるんだから、出るんやないの?」って。

すぐ問い合わせのメールをしたら、「エントリーしてないと練習走行も走れないから」って。「でも、もしタイムとか良かったらレース出ちゃえばいいじゃん」って。ひじょうにいい加減な返事が来まして(笑)。

まだ、24時間走る身体ができてないから。ちょっと怪我を引きずってたし、ちゃんとフィジカルのトレーニングはしてたけど、24時間なんかやれる身体にはなってなかったらから、無理だろうなと思いながらも。

で、練習走行走り始めたら、なんか出る方向に辻褄が合ってきちゃったんですよ。タイムも良かったし。
驚いたのは、鳴り物入りで来たチームメイトのスロベニアのチャンピオンが、骨折って速攻で乗れなくなっちゃったんですよ。テレビとか連れて来てるのに、自分の国の記者なんかいっぱい連れて来てるのに。けっこう有名人らしいんですけど。
で、全部で4人いたライダーが3人になっちゃったんです。で、なんとなくお前出なきゃ、こっちの31番車リタイヤになっちゃうですけどって雰囲気になってきて(笑)。

でもね、今考えると、ライダーなんて、他のチームからもいくらでも引っ張ってこれるから、オレでなくてもよかったハズなんだけど。

プラクティスではタイムも遅かったんです。それは、わざとなんですけど。だって、初めて走るサーキットだし、見たこともないヨーロッパのサーキットで、初めて乗るレーシングバイクだし、初めて使うピレリのスリック、でエンデュランス履かされたり、ミディアム履かされたり、ころころころころ変わって。しかも30分くらいしか時間くれないんすよ。いつも。
しかも、他の外人が乗りたい乗りたいっつって乗るから、俺はいつもセッション中3〜4ラップ出来れいいほうで、日本人はこうやって見てるだけだし(笑)。行けって言われたらいくっていう。

でもまあ、最後に結局予選の日が来ちゃって。
じゃあ、いいや、ちょっとだけアタックしようと思ったら、31番車に乗るライダーの中で一番速くなっちゃった。
チームが2台体制で、ライダーが6人いる中で、3番目のタイムが出ちゃって。みんな大拍手で。すげーなって感じになっちゃって。
もちろん出るよね、って感じになって、じゃあここまで来たら出ます出ますって言って。

リコがマネージャーで監督やってて、リコが「お前一番速いんだから、スタートやるよな」って。
で、もう一人、31番車がチェコのマイケル、って、マイケル・インディって、多分見たことあると思うけど、TT出てる。僕と同じ「花の2009年ニューカマー組」の(笑)。ちょっと褐色のインディアン気味の。ヤツが一緒に出てて。で、マイケルかマツか。
そしたら、マイケルが辞退したんですよ。「オレ、緊張しぃだから、マツ、お前やれ」って。
でも、耐久のスタートは好きだし、しょっちゅうやってたし、世界選手権ももて耐もそんなに変わらないだろうって。で、いいよいいよって」

──ボルドール、お客さん多いでしょ?

「多い、多い!
すごかったですよ。蟻の這い出る隙間もないくらいびっしり。
MCのおっちゃんがフランス語でなんとかなんとかって。(お客さんが)うわ~~!って。なんとかなんとか、うわ~~って。客を煽るの。
うわーすごいなーって。ちょっとした外人タレントのライブコンサートみたいになってて。

そんなことまでやらしてもらって、の、マン島なんで

いよいよ、次回は最終回! 乞ご期待。

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2012.01.08

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その4

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その3

新春特別企画としましてお届けしております、松下ヨシナリさんの超ロングインタビューも、いよいよ佳境に入ってまいりました。
昨年、マン島TTレースに二度目の挑戦をした“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリ氏。初挑戦のTTは、大転倒で大怪我を負ったにも関わらず、二度目の挑戦を決意したのはなぜか。その3に引き続きお届けします。


* * * * * * *

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2008年三宅島モーターサイクルフェスティバルにて、左から松下ヨシナリ、ミルキー・クォイル、小林ゆき、イアン・ロッカー


──初参戦の2009年は転倒して大怪我に終わりました。転倒したとき、何が起こったんですか?

「スロットル戻してブレーキかけたときに、曲がれないって思ったんですよ、あんな高速コーナーなのに。
気持ちよくなっちゃってたから、やばかった状況で走ってたと思う。
楽しくてしょうがなくて、恐怖感がなかった。
で、多分、あのゾーン、あの状況を乗り越えて走りきると、僕、たぶん一気に真ん中へんを走れるライダーになったと思う。あのラップ、ぜったい(1周のラップライム)18分台入ってたと思う。だってガイ・マーティン(※近年、常にトップ3に入る有力選手)がなかなか離れないんですもん。そりゃあクラッシュしますよ、だってそんなセットアップになってないんだもん。俺のR1(笑)」

──転倒後、我に返った瞬間って何を考えてましたか?

「当たった瞬間は見てないんですよ。行く方向見て絶対曲がれると思って。曲がれると信じきって。20090605img_0724s
そういうやばい瞬間は予選から何回かあったんですよね。ドキっとするというか。
とくにマウンテンはいやだった。コワイ。今でもコワイですよ。苦手。
マウンテン好きだって言ってる人たちは、多分、遅いバイクでマウンテンコースを経験している人だと思う。だって400とか125だったら、あそこ全開で走ったら絶対楽しいもん。だけど600でも走ったことないんで、感覚はわからないけど、1000で飛ばすのはあそこぜんぜん楽しくないですよ、めっちゃコワイですよ、バイク重たいし、どっち行くかわかんなくなっちゃうし。遅いバイクを経験していると楽しいと思う。

でも、全開にならないと(1周)20分なんて絶対切れない。23、22、21分出てくると、景色が全然変わってくるから。

曲がる? 曲がれる? って思ったけど、やっぱり曲がり切れずに、アウト側の土手にばーんってなったところまでは覚えているんです。
で、そっから先は数分間、失神し。
(のちに)車載カメラ(の映像)を見て憶測するに、僕はたぶんコース上に人形みたいに投げ出され、バイクはこっち側に、ちょっと高い土手のところにこういう風にピンボールみたいに、粉々になってるんです」

我に返ったのは、あのブラックハット(コーナーの名称)のマーシャルボックス(フラッグマーシャルが待機する場所)の左側の土手の上にひっぱり挙げられたの。けっこう上までひっぱりあげられた感じだったなぁ。で、「起きたぞー」っみたいな感じになって。

なんかすごかったですよ、あの体験は。英語でしゃべりかけられてるのに、日本語で頭に入ってくるんですよ。
だからわかるの、言ってることが。
「ブーツ脱がせろー」とか、「ヘルメット脱がすぞー、いいかー」とか。オッケーおっけーって。

でももう右半身がまったく動かないからヤベーって思って。
で、まず僕が転ぶと僕が一番最初にすることは手とか脚とか動かすんです。でも右半身がまったく動かないから、ヤベーやっちゃったかなー神経とか。あーあやっちゃったなー、気持ちよかったのになー、残念。みたいな。バカだなーオレ。って。」


中途半端で一番になれなかった自分と、身近な人の相次いだ死と。

──二度目の挑戦をしようとなぜ決意したのですか?

「僕はね、しつこい性格なんですよ。
ほんとに小さい頃からそうなんですけど、中途半端で、一番になれない人だったんですよ。やりきれないっていうか。そういうのが自分の中でずーっとあって。
こんな歳になっても、あんとき甲子園も出れなかった、あんときはって。一番になれなかった。
別に、TTに出て一番になるとかじゃないけど、あんな中途半端な終わり方して、TTに出て、いろんな人に助けてもらったのに、イアンとかにも迷惑かけて、もし怪我が治ったら、元通りなるんだったら、もう一回やってみたいなっていうのは、もう入院してたときから思ってました。実は。絶対もう一回やってやるって思って。

マン島で入院してた時は、お見舞いにイアンとかゴールドレプリカ(※特別なライダーだけが貰える稀少なトロフィー)もらってわざわざ持ってきて見せに来てくれたりして。向こうで入院してるときにすでに「絶対もう一回やってやる」ってちょっと泣きながら思ってたりして(笑)。

そしたら、(日本の)医者がなおんねぇって言うから。治らないかもって言うから。

向こうの医者は「だいじょぶ、だいじょぶ、治るから」って。ノーブルズホスピタル(マン島の病院)のインド人の医者は、「このまま治るから手術はしない」って。
でも、レントゲン見ると、肩甲骨とか粉々に砕けてるし、足首とかばっくり割れててちょっとずれてるんですよ。これ手術しないわけにはいかないなって。

で、すぐに鎌田学ちゃんとか、ひどい怪我してた松戸直樹とかに電話して、「ちょっとさ、こういうレントゲンの状況でさ、こんな感じなんだけど、どう思う?」って。そしたら、「一日も早く帰って来た方がいいよ」、って。

そしたら医者が「帰っちゃダメだ」って。「この状態じゃ動かせないからダメだ」って。で、「帰りたい、帰りたい」って毎日大騒ぎして(笑)。
10日後にやっと帰してれることになったの。船もダメ、飛行機もダメみたいな感じだったんです。結局、どっちかじゃないと(島だから)出られないじゃないですか。困っちゃったなーって。
で、結局、看護師付きだったらしょうがないってことになって。

日本に帰って来て、手術してもらって。
最初のお医者さんに「治らないかもしれない」って言われて。
っていうか、「こんなところ粉々にする人初めてだし、症例も少ないからわからない」って。
で、「足首も砕いちゃうと骨壊死する可能性が高い骨だから、仮にくっついたとしても骨壊死するかもしれない」って。

でもきれいに治してもらったんですよ。リハビリもかなり頑張って。で、いまもお医者さんかびっくりするくらい、治してきれいに治って。
大学病院だからかもしれないけど執刀した先生は出てこなかった。で、肩の権威の整形の先生と足首の権威の先生が別々に同時に手術したらしくって。もうオペ室は満員御礼状態だったもん。
全身麻酔だったけど、珍しい手術だからギャラリーがいっぱいいて(笑)。
肩はほんときれいに治していただいて、足首もきれいに治していただいて。
今では「骨壊死もほぼ大丈夫だ」って。「そのかわりボルトは取らない」って。ボルトとプレートが肩に12本入っているんですよ。取るのがたいへんなんですよ。

リハビリ? もうね、何カ月ってリハビリはかなり頑張りましたよ。

伊丹っちが(TTに)出た年(2010年)は、ほんとにリハビリの1年でしたね。怪我を治さないとどうしようもないんで。
バイク乗れるようになるのに10ヶ月かかりました。
乗れるようになっても、全身筋肉なくなってるし、太ってるし。いいとこ一つもなかったですね。ぜんぜん身体も変わっちゃって。乗り方も変わっちゃった。
でも、いい方に変わったみたいですね。力が抜けたっていうか。前はすぐ(手に)豆を作る乗り方してたんですけど、出来にくくなった。手、ぷにぷにですもん。前はカチカチになるくらい豆が出来て、でも今はぜんぜん大丈夫ですね(笑)。

2010年、伊丹っちがマン島行く直前。これは暗い話なんですけど。5月に(鎌田)学ちゃんが死ぬんです。
学ちゃんが死んで、仲間で彼の葬式を出したんですね。
そのとき、かなりリアルに人は死ぬよねって感じて。

もともと、最初にマン島を目指そうと思ったきっかけも、母親が死んだことが大きく関わっているんです。
2005年くらいかな。65歳で死んだんですけど、難病だったんですよね。だんだん身体の筋肉の機能が失われていくっていう。ALSとか筋ジストロフィーとかああいう系統のやつで。でも結局病名不明でした。どの病気にも当てはまらないって。

母親が「やりたいことがあったら、とにかくどんどんやんないと。人は死ぬからね。一生懸命生きなさいよ。じゃあね」って言って死んだんです。それはけっこう大きかったですね。

それとタイミングが重なってたから、マン島に行こうとか、マン島に連れてってくれとか、マン島行ってレースに出ようとか、レースに出るモチベーションになったって言うか。

だから、2回目の、怪我したあとの、2010年も春に学ちゃん死んで、ちょっとふつふつとしてたんですよ。なんであんなすごいヤツが。なんであんな死に方するんだろうって。しかも業界の損失もいいところじゃないですか。これから牽引してもらわなきゃいけない役なのに。勘弁してくれよって思って。
で、なんかやっぱしやろうかなって。もう一回マン島ちゃんとやろうかなって。
でもなんとなく人に言えなくって。

そしたら、9月に今度はショーヤ(富沢祥也)が死ぬんですよ。うわー、これもう絶対やる。オレ絶対やってやるって。

で、カミさんに話したら、超ブチ切れられ。「はぁ?」みたいな。
「こんな目に遭ってまだやろうっていうの! 馬鹿じゃないのーっ!」って。超怒ってたなー。

一回目のときは半分だまし討ちみたいな感じだったから。「だいじょぶだいじょぶぜんぜん平気だから」って。マン島なんか知らないじゃないですか、(名前くらいは)聞いたことあるかもしれないけど。
一回怪我して帰ってきて、みんなに死ぬだの生きるだの言われて、だいぶ情報を吹き込まれて。オレの原稿を影で盗み読みしてたみたいで。
死ぬだの生きるだの危ないだの書いてあるじゃないですか。

基本、反対のスタンスで。応援はしてない。でもなんだかんだ言ってしぶしぶ容認みたいな感じで。離婚もせず(苦笑)」

(その5にまだまだ続く!!)

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2012.01.06

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その3

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1
松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2

新春特別企画としまして、昨年、マン島TTレースに二度目の挑戦をした“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさんの超ロングインタビューを、その1、その2に続きましてお届けします。

* * * * * * * *

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ミニバイクレースで後にトップライダーとなるキッズたちに揉まれ、デザイナーしつつメーカーの試乗会でライディングの感性が磨かれ、もて耐挑戦でビッグバイクのレーサーの経験を積み、着実にレベルアップを重ねた松下ヨシナリ。転機となったのは、2006年6月のマン島TTレース初観戦だった──。


──TTに出ようと決意したときのことを聞かせてください。

「出られるなぁこれなら。と、思ったのは、2006年に前田淳さんが亡くなった年、取材に行ったとき。

あんとき、伊丹君(伊丹孝裕:元クラブマン編集長で現フリーのバイクジャーナリスト)にマン島行くんだって言われたとき、行きたい?って言われたから、行きたいって返事して。自腹でもいいから、とにかく付いて行くんだって。

そのとき(現地取材時)、(自分の人生で)初めて見たオートバイ雑誌に載ってた走りの写真が、「あ、あれマン島だ!」って思い出した。
壁があって、白いヘルメットのライダーがこうなってる、ああそうだ、バイクのレースカッコイイなって思ってインパクト受けたのって、あれ、マン島だ! って、そのとき、びしってつながったの。

それ、もしかしたら(ロン)ハスラムさんじゃないかなと思ってんの。白いヘルメットで。わりとGPオタクでマニアックだったから、そういうの好きで、『サイクルワールド』とか『グランプリイラストレイテッド』とか読み漁るの大好きで。いっつもかっこいいなと思ってて憧れてて。
で、そのときつながったんですよね、マン島だ、あれマン島だ。って。マン島だ、行く、行くって。

そしたら、マエジュンさん(前田淳)あんなことになっちゃって。びっくりして。
でも、マエジュンさんはプラクティスウィークの最初にクラッシュしてるから、僕が行ったときはすでに1週間近く経ってるんですよね。
もう(イギリス)本土の方に飛んでっちゃってて(※ヘリコプターで病院を転院した)。で、もう大丈夫だってことになってたのよ。大丈夫だってことになってたじゃない。だから、持ち直して大丈夫じゃない、って。よかったね、って言う翌日だかに亡くなったんだよね。

オレ、英語とかさっぱりわからないから、伊丹君とかと車で駐車場入ってプレスルームに入るまでに、何人かに、今日、悲しい日だよね、って言われて、あんまり意味がピンと来てなくて。
プレスルームに入ったら(小林)ゆきさんが泣いてて、それでまさかと思って。

でも、僕はマエジュンさんとはほんとにちょっと少し言葉を交わしたことがある程度で、マエジュンさん! とか呼べるような間柄ではなかったから、その、死んでしまったということが、ちょっと本の向こう側のことのような感じがしちゃってたんです。

でも、そういう出来事があったにも関わらず、僕はマン島、ものすごい楽しかったんですよ、最高に楽しかったんですよ。ちょっと不謹慎かもしれないけど。
本当に楽しくて、こんなバイクの島、あったらサイコーだなーっとおもって。毎日ウキウキで。クラシックバイクもレーシングバイクも、そんなに広く浅くだからよく知らないけど、とにかくバイクに乗ってる人がたくさんいて、バイク乗りで、バイクが好きだっていう空気感が良かったんですよ。これは最高だ、こんなところねぇって。

ホンダさんから(広報車の)CBR600RRとCBR600Fを借りて、島じゅう走り回ったんですよ。ツナギ隠し持ってって、毎朝走ったりとかして。
で、走ってみて、コース面白かったし。朝早く。走り屋の外人さんとかいて、どうみても道、すべてたたき込まれてるでしょ?、オッサン! とかいう人がいっぱいいたりとか。ローカルなんだかよくわかんないけど。

で、レース見ながら、真ん中から下の人たちだったら、別に通用するんじゃないか、って思ったんですよ。出れんじゃないかな、と思って。

で、伊丹君に「出られると思うんだよね」って。「出られるようなアクション取れるかなー」って。そしたら伊丹君も「オレも同じこと考えてた」って。それじゃあ、なんとなく一緒に目指すみたいな感じにして、やろうかっていう話に、帰りになったんです。

で、翌年がセンチナリー(100周年記念)で、翌年も行くんです。で、もう一回行って、100周年の雰囲気も見て、「大丈夫、オレ、通用する」って」

──参戦を決意するにあたり、気にしたのは走りのレベルですか?

「いや、コースですね。攻略できるかが一つと、あと、怖いと思うか思わないかが一つあったんですよね。
走ってて、楽しいの比率が高いか、怖いが来るか、どっちかなーと思ったら、楽しいが全然(来た)。

覚えきれるかってのがあったし。でも覚えられるか覚えられないかは、あそこに出てた当時80人くらいの人たちは、少なからず覚えているわけじゃないですか。
あの人たちに覚えられるなら、オレも覚えられるなって。僕の論理は全部そうなんです。相手に出来るんだったら自分にも出来るっているのが礎なんです。
ことオートバイのことに関して言えば、まあ、そんなに操作なんて大差ないし、まあ、真ん中より上の人たちは頭おかしいけど(笑)」

──実際にTTに出るにあたってまずは何をしましたか?

「マン島に出たいけどどうしたらいいかって調べてみたら、国際ライセンスを取らないとFIMのライセンスが出ないって言われて、当時ACU(※オートサイクルユニオン=イギリスのモーターサイクルスポーツ統括団体)とか知らなかったですけど、国際ライセンスがないとACUライセンスも取れないって言う風に言われ、じゃあ国際にあがらなきゃいけないんだ、めんどくさい、って(苦笑)。

あと、年間6戦(の条件。※TTに参戦するには国際ライセンスの他にTTマウンテンコースライセンスが必要となるが、その取得条件が年間6戦のレースを完走することとなっている)。

それをクリアするために、(オートボーイJ’sの)鴻巣さんにお願いして(レース参戦用の)バイクを借りて」


子どもの誕生と、年齢の壁と。しかし、「人間としての運動能力を保てるのには限界がある、やれるときに、なるべく早くやらないと」

──TT参戦にあたって、チーム体制などはどのように作っていったのですか?


三宅島(三宅島モーターサイクルフェスティバル)に2007年の10月、イアン(ロッカー:ベテランTTライダー)が来ました。
で、そこで一気にTTライダーとの距離が詰まるんですよね。

そのとき、すでに伊丹っちと出ようって決めていたにも関わらず、イアンには(TTに出たいと)言えなかったんです。まだ他人にマン島に出たいって言ってなかったんです。
まだホームページすらなかったんです。
なんかそんなこと言ったら……言っていいのかなって。国際(ライセンスライダー)でもない、わけわかんないライターだし、デザイナーだし。そんなヤツにマン島? アホか? って頭ごなしに言われるのわかっていたから。
わかってたっていうか、そういう雰囲気を自分の中で勝手に作ってたっていうか。

で、イアンに結局言えなかったんです。イアン帰っちゃったんです。でも、すっごいイアンと仲良くなったんです。東京見物も一緒にして、酒も毎日一緒に飲んで。で、イアンが帰っちゃって。

で、翌年、また三宅島で今度は僕メインMCをやらしてもらって。
今度はミルキー(リチャード・“ミルキー”・クォイル:元TTライダーで、現在はTTライダーのアドバイザーを務めている)も来るんです。

で、いつでも国際(ライセンス)に上がろうと思ってたし、このマシンがあって(レーサーのZXR1200)。Dsc_0059s
当時これで地方選に出られるカテゴリーがあったんですよ、スーパーTCフォーミュラっていうクラスが。
で、表彰台に乗ったりとか。

あと、もて耐に(BMW)HP2スポーツ優勝したのがまあそこそこ周りにインパクトがあったみたいで、第一ライダーもやったし、タイムもまあまあ出て、5秒とか4秒とか出るんで。2気筒の空冷で。
なんとなく年末頃には「国際上がりたいならいいよ」ってカミチューさんが推薦してあげるよーって言って下さって。

で、意を決してイアンとミルキーにマン島出たいんだって打ち明けるんです。じゃあ、出たいなら手伝うよって言ってくれて。それなら手伝ってあげるよって言ってくれるんですけど…。

でもいろいろあって。で、オマエは誰なんだってとこから始まって。で、一緒に筑波サーキットに行ったりね。
コレクションホールに行きたいって。じゃあそれを企画にして、コレクションホールに行くのあとにして、バイク借りてツーリングに行くんです。で、筑波サーキットも寄っちゃおうっていうのも企画にくっつけて。
ドッグファイトさんにバイク借りて。イアンとミルキー、喜んでた。トリッキーだけど狭いけど面白いコースだねって。イアンはあっと言う間に3秒くらいで走ってて。やっぱすげーなーワールド、と思って。
で、一緒に走って、どう? って話をしたら、「マツ、お前ぜんぜん平気だよ、大丈夫だよ、走り見て安心したよ、まともだから全然大丈夫だよ、心配しなくていいよ」って言ってくれて、「どういう手伝いしたらいいか考えておくよ」って。で、帰っちゃったんですよ。

ちょうど僕がマン島TTに参戦の1年目、2009年に出たときに子どもが生まれたんです。
タイミング的には2008年の12月生まれなんです。うちの娘が。

イアンとミルキーにTT出たいって言ったとき、お腹に子どもがいるって言ったら、それでイアンとミルキーは一瞬、反対するんです。
そんな、子どもがこれから生まれるのに、TTなんて出るべきじゃないぞって、曖昧な答え方をしたんです。
でも、ミルキー・クォイルとイアン・ロッカーが目の前にいるのは今しかないし。
今TTに出たいって言ったら……、もう来年でしょ、もしくは再来年でしょ。
今、このタイミングは今しかないし、僕は当時38歳の年ですよね。38歳。もう人間としての運動能力を保てるのには限界がある、と。やれるときに、なるべく早くやらないとダメだから。
それで、もし僕が亡くなるようなことがあっても、そりゃ僕自身の運命だし、そういうことはないように約束するから。って言って。
もうそのタイミングっていうのは絶対あるから。
あのとき、迷ってイアンとミルキーに出たいって言わなかったら……。だって、次の日来てないんだから。
だから、やっぱりあのタイミングはどんぴしゃだったんだなと。

それからなしのつぶてで連絡もなく。じゃあ2009年のTTに出ることはないなって勝手に判断してたんですよ。1月頃。そしたら「ウチのチームで出なよ、2008年型落ちでよければR1が一台あるし、ストック仕様だけど」って連絡があって。そのかわり、「資金とメカニックはちゃんと用意してね」って」

──で、お金は実際どうしてたんですか?

「スポンサーを集めました。僕ね、ずっと、こういうチャレンジをするんだったら、絶対に人のお金でやろうと思ってたんです。それがレーサーだからって。自分のお金でやるんだったら趣味って。僕みたいな立場でやるんだったら、へんてこりんなキャリアだけど、レーサーとしてスポンサーを獲得して、そういう大きな舞台に出ることができたら、夢があるなって思ったんですよ。アイツにできるならオレにも出来るんじゃね? みたいな。

でも、やっぱ大変でしたね。プロレーサーだったことがないし、スポンサーを獲得する活動なんて一回もやったことないし。まず企画書を作るところから始めて、てんやわんやの大騒ぎでしたね。

企画書は代理業をやってたおかげで、企画書を作るお手伝いをしたことはあったし、企画書だけはなんとかできました。でも、それを持ってさてどこに行きますか?(苦笑) 
しょうがないから、今まで名刺交換した人に片っ端から連絡して、「ちょっとこういうことやろうと思っているんですけど、スポンサーを紹介してください、もしくはスポンサーになってください」って言って、「なんか芽があるようだったらすぐ行くから」って。とにかく足で稼いで。

ちょうどその時点で、ダンロップの展示会のMCのイメージ、2年くらいやってたし、三宅島もメインMCやりました、もて耐も勝って、いろいろ露出させてもらえて、なんとなくこんなヤツいるなってなんとなく業界にこんなヤツいるなって浸透してた頃で。
それでもお金出してもらうなんて信じられないことで。だってお金ですよ。だから、僕のツナギに付いてるスポンサーって変わってるの。オートバイ業界とは違う、アウトドアブランドとか、居酒屋とか。

とりあえず、車両のレンタルフィーは別として、300万円くらいあれば出来るんじゃないかなって思って。でも計算機叩いたら、300万円じゃあぜんぜん足りなかった。とりあえず500万円にしようと思って上方修正して。でも集まらなかったですけどね(笑)。チームの人に飯食わせなきゃいけないし、ギャラくらい払わなきゃいけないし。多少持ち出しもしましたけど、なんとか辻褄があったっていうのがありがたかった。

アラカワシンイチロウさんがTシャツをデザインしてくれて、これ売りなよとかアドバイスしてくれたり。ペアスロープさんとか販売も手伝ってくれて。
それも新垣さん(元世界GPライダー新垣敏之)のマネですよね。
ああいう先輩たちがやってきたことがあって、それを知ってたりアドバイスしてくれる人がいたから、出来たことで。自分が考えたことじゃないですよ。全部先輩たちがやってきたことを真似して自分なりに咀嚼してやっただけで。

マン島も、マエジュンさんが10年やってあそこまでのポジションを築いたから、僕がエントリーを認められたんだと、今でも間違いないなと思ってるし。

先輩がいて、ちゃんとやってきてくれたから続いただけで。
オレもちゃんとやらないとって。だから、バカにされようと、妙竹林になって阿呆みたいに思われようと、そこに行けば結果はついてくるし、ちゃんと真面目にやれば、見てくれる人は見てくれると思って」

(その4にまだまだ続きます!!)

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2012.01.05

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その2

新春特別企画としてお届けしてまいります、“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさん。
昨日の「松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1」に続きまして、その2をお送りします。

* * * * * * *
甲子園常連校の強豪校でピッチャーとなるも、怪我で甲子園の土は踏めず。その経験が、大転倒による大怪我から長期のリハビリで怪我を克服、二度目のマン島TTチャレンジへの原動力となる──。

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「初めて見るコーナーを予測して走るのが楽しかった──」、ツーリングで知ったライディングの奥深さ

──バイク暦はレーサーだけですか?

「いえ、ミニバイクレースをだらだらやってた24から26歳くらいのときに、やっと道路で乗るバイクを手に入れるんです。
(スズキ)グース350。ものスゴイ安物を手にいれて。
125で怪我してミニバイクに戻るくらいに、道路で乗るとまた違うよ、楽しいよ、ってレースしないツーリングライダーの友達に誘われて。
初めて伊豆に行ったんですよ。今でもよく覚えてます。楽しかったねー、ツーリングが。走りまくって。あっちも行って、こっちも行って。

道路のワインディングも、往復とかするとコース覚えちゃうじゃないですか。覚えちゃうと楽しくないんですよ。初めて入る、初めて見るコーナーを、景色とかガードレールの角度とか峠のリズムとかを予測して走るのが楽しかったんですよ。すべて予測が楽しいんですよ。
僕の中で絶対にはみ出さないっていうルールがあって。進入でも立ち上がりでもぜったいにはみださない。速い必要はないんですね。楽しければいい

──それで、一気にツーリングライダーに?

「でもレースもしながらね。
たぶん、ちょっとレースがつまらなくなってきた頃だったんだと思います。
プロにもなれそうにないし、どうしようかなって。別に警備員やってれば生きてけるし。ちょっと腐った若者になっていったんだと思います。

そこに、ツーリングっていう新しいカテゴリーが入ってきて、バイク楽しいーっ! みたいな感じになったんですよ。
しかも、2000円とか3000円のボルトとか小さなパーツを換えるのさえ楽しかった。つまんないブレーキレバーをつけるとか、ちょっと変わっただけなのに、うーーん、カッコイイな、オレのグース。とか(笑)」

全部、辻褄が合った、27歳の頃──。Dsc_0044s

──アルバイト生活からグラフィックデザイナーへの転機は?

「当時、つきあっていた仲間が、パソコンでデザインして印刷物になる時代になるらしい、って言うんです。いわゆるDTPってやつ。マックの7500とかの時代。
で、その人は絵描きだったんですよ。パリとかで勉強して。その人が、オレ、デザインするしパソコン買うから、お前、事務所とパソコンを覚えるアクションをしなさいよ、と。一緒に事務所っぽいことやろうよって誘ってくれたんです。もう、ちょっとレーサーとか無理っぽいなって思ってたし。
絵に関しては、浮世絵やってたんで、絵自体を見るのは好きだったですけどね。バランスを見たりとかは好きだったですけどね。

で、自分を変えられるんじゃないかと思って。なんか、ぜんぜん違うことやりたかったんですよ、仕事になること。サラリーマンをやろうと思えばできるし、アルバイトを続けようと思ったらできる。でもなんか面白くないなって。でも、ゼロからまったく違うことも楽しいなって。まさにいいタイミングだったんですよ。

ちょうどDTPスクールってのが始まったくらいの時代で。でDTPスクールに入ったっすよ。そこで出会った先生がいい先生で。デザインとか印刷の流れとか、全般を教えてくれる先生で。
結局そこでDTPエキスパートっていう資格を取って。そしたら、その先生に、お前面白いから講師やれよ、って言われて、そこで先生もやったんですよ。

──そこで、“ベシャリ”も覚えた?

「しゃべりは、たぶん、秋が瀬(サーキット)で、本山哲くん(レーシングドライバー)のお母さんにちょっと手伝えって言われて手伝ったのが先ですね。
見よう見まねで千年屋さん(千年屋俊幸:元レースアナウンサー)のまねをしたり。そしたら、お前面白いね、みたいな話になって。

そんなのを、DTPのスクール通いながら、講師をしながら、人に教える、しゃべる、実況する、みたいなのを、そのとき自然に訓練されたんだと思います。

ちょうど、同じくらいのタイミングで、当時「モトチャンプ」の編集長さんが、DTPできるんだって、って言ってくれて、出版の世界にもちょっと入ってって。全部、その頃、辻褄が合ってって。27歳ですね。

で、同じタイミングで、当時はメーカーさんの試乗会がいっぱいあったから、鍛えるって意味で、じゃあ試乗会で乗って書いてみなよって。育ててくれたんですよ。乗ってみたら、なんだデカいのも乗れるじゃない、って。当時はモトチャンプも、排気量のでかいモデルの試乗会に行ってたから。
で、書いてみなよ、って。それでどんどん鍛えてくれたんですよ。DTPやって、ライターとしても鍛えさせてもらって、グースとか乗ってツーリングもしてて、そこそこ大柄なバイクも乗って、そういう意味では特殊能力はないけど器用ではあるんですよね。きっと。
突然、今年のボルドール24時間の舞台、マニクールサーキット行って、真ん中くらいのタイムは出ちゃいますから。そういう器用さはあるのかな、と。

そのうち、広告代理業みたいなことになってくるんですよ。
知り合いとかパーツメーカーの社長さんなんかに挨拶にいくと、広告代理店のやつがバイク知らないからいちいち説明しなきゃいけなくてめんどくさいんだよ、なんていう話をけっこう複数聞いていたんで、じゃオレ始めたんでオレやりますよ、って言ってたら話がどんどん入ってきて、事務所が立ち回るようになってきたんですよ」

──ここ10年くらいはホビーレースで活躍されてましたよね

「30歳過ぎて、それこそ、オートボーイさんで武田さんに「もて耐」に誘ってもらったんですよ。実は、あれが初めてのビッグバイクレーサー。2002年? 2003年かな? バイクは(スズキ)RG500ガンマ。あんとき、レベルが高くてさー。予選なんか通るわけないですよ(笑)」

その3に続く!!

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2012.01.04

松下ヨシナリ・ロングインタビュー~その1

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昨年、2度目のマン島TTレース参戦を果たした“走って喋れるモトジャーナリスト”松下ヨシナリさん。

海外の雑誌(TTSCマガジン)に頼まれてインタビュー記事を書くことになったので、2011年11月2日に茨城のオートボーイJ'sさんに場所をお借りしましてインタビューを敢行してまいりました。Dsc_0070s

ほんとうは、マン島TTレース参戦のことだけ小一時間話を聞く予定だったのですが、思いがけず、松下ヨシナリ氏の人と成りを含む3時間に亘るロングインタビューとなり、これをテキストに起してみたところ、これは面白い! と思いまして、ダイジェストになってしまう英語記事になる前に、弊ブログにて、全インタビューのほとんど全文を、新春特別企画として連載してまいりたいと思います。

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甲子園出場の強豪校でピッチャーとなるも、怪我に泣き、打ちのめさせられた高校時代

──さまざまなお仕事に携わっていらっしゃいますが、まずは「いったい、あなたはナニモノなんですか?」と質問させてください。

「僕はグラフィック・デザイナーです。あとは、ライターでジャーナリストです。
自分が実力あるとは思ってないですけど、レーシングライダーと言っていいキャリアにはここ何年かでなってるのかな、と思います。
あと、“おしゃべり”します」

──バイクに興味を持つようになったきっかけは?

「中学生くらいのときにバイクの雑誌を立ち読みしたんです。レースの写真がいっぱいあって、カッコイイなぁって。
多分、レース系の本でした。『サイクルワールド』だったか『レーシングヒーロー』だったか」

──実際にバイクに乗ろうとしたときのきっかけは?

「中学出て、高校に上がるときに、ヨシ、免許取れるな、と。で、結局取らないんですけど(笑)。
部活やってて野球少年だったんです。小学校からやってて。
思い込みが激しいヤツでね、『みゆき』とか『タッチ』とか読んで、オレはいけるぞ、と。甲子園とか出ちゃったらプロ野球選手になれるのかなあ、という思いが漠然とあって。
小学校、中学校でそこそこ地域で有名な選手だったんですよ。いま思うと、身体が大きかっただけだと思うんですけど。あの年頃って体格の差って大きいんですよね。

高校は中学から高校に上がるとき、僕に人生の選択肢が二つあって、ひとつはぬるい高校に行って、チャラチャラやりながらオートバイの免許を取って野球もやる。ナナハンライダーの光くんみたいに。
もう一つはガチガチの野球。目指せ甲子園ですよ!

ちょうどそのころ両親が離婚しまして、かなり貧しかったんです。僕は母親に付いて行って、母ちゃんを楽にしなきゃと思って、ガチガチの野球部に特待生で入って、学費も全部タダだよって。それが大きな間違いでした(笑)。
その学校は全国からいい選手を集める学校で。強かったんですよ。で、僕が2年のとき、甲子園に出るんです。(在学中に)2回、甲子園出ているんです。でも、僕の出場機会はゼロだったんです」

──ベンチをあたためた?

「ベンチにも入れなかったです。当時、160人くらいいましたからね。一番(選手を学校が)集めてた時代です。160人の中で、ピッチャーが25人くらいいて。プロみたいなメニューで練習させられるんですよ。1軍から4軍まであって、1軍と2軍は同じメニューで練習をやって、3軍と4軍はまったく別メニューでやるんです。ピッチャーも別メニューで。ピッチャーの中で当時、3番手、4番手くらいだったですかねー。球ばっかり速くて、ぜんぜんコントロールできないんです。ノーコンピッチャー(笑)
かなり打ちのめさせられる経験しましたよ。いっつも居残り練習してました。自発的にね。もう完全にスポコンですよ。

2年で先輩が甲子園出て、うちら先輩後輩ない部活だったんで、2年のとき甲子園出たとき、オレも来年……って思って練習しすぎちゃって、肩のじん帯、バチーンって切れちゃって。手術するほどの太いじん帯じゃなかったみたいですけど。ボールはもう投げられなくなっちゃった。

よしこれはラッキー、と思ってやめようと思ったんです。バイク乗れるじゃないですか。それが引退できなかったんです。顧問の先生に「部活やめるのだけはよしとけ」って。「これまでタダになった分、請求くるぞ。入学金とか」。
いま思えば脅しですよね(苦笑)。でも、親に迷惑かけられないなと思って、籍だけでも在籍しておこうと思って。でもまあ部活に行ってましたね。
で、3年のとき甲子園に行って、でも悔しいだけの甲子園でしたね。今思えば、あのころから怪我ばっか(笑)」


「職業ライダーになりたかった」プロスポーツ選手に憧れて始めたバイクレース、しかし怪我続きでうちひしがれる

──結局、実際にバイクに乗るようになったのは?

「18歳のときっすね。高校卒業してからです。卒業前に捕まってるヤツとかけっこういて。捕まって停学とかなって部活に迷惑かけちゃいけないと思って。でも当時は同級生でミニバイクレースとかスクーターレースとかやってるヤツはいましたよね。秋が瀬(サーキット秋が瀬)とか、教習所レースが盛んだった頃。

それから免許取るんですけど。中免取るんです。で、(スズキ)Vガンマの88(ハチハチ=1988年式)を買うんです。いきなり月賦で。で、すぐ事故して、だいぶひどく骨をあちこち折り、入院したりして」

──レース参戦へのきっかけは?

「選手権に参戦し始めたのは92年だから、もっとだいぶ後なんですけど。選手権シリーズを追いかけて出てたわけじゃなくて。ぜんぜん通用もしてなかったし。予選10番手くらいのタイムが出たらレース出ようと思って。結局でなかったんじゃなかったかな。

怪我して、治って、ミニバイクレースをするようになりました。ニーゴー(250ccクラス)とかでいきなりレースやると、(参戦費用が)高いし、危ないし。
その当時、「ミニバイクレース」って言葉が出てきて、仲間と一緒に(ホンダ)NS50を買って。で、当時、大ちゃん(加藤大治郎)とか雄一(武田雄一)とか長純(亀谷長純)とかみんないて。ぜんぜん子どもですよ、ガキですよ。でも雄一とか速かったなぁ。もうとんでもなく速かった。ノリック(阿部典史)はちょっとしか絡んでないんだよなぁ」

──ここ10年くらいはホビーレースに出てましたよね? それ以前のレース活動はどのようなものだったんですか?

「不思議なんですけど、ミニバイクレースを始めたときは「職業ライダー」になりたくて始めたんですよ。プロスポーツ選手っていうのを生業にしたかったんです。スポーツでご飯食べられたらいいなって。で、団体競技はもういいな、バイクでご飯食べられたらいいなって。当時、流行ってたし、華やかだったし。ミニからステップアップしようと思って。

環境が良かったこともあって、大ちゃんとか雄一とかいたのもあって、速い子がいっぱいいて、すぐにそれなりに通用するようになって、当時、コースレコード(非公式)が出たりして。そこでまたオレ勘違いして、オレ行けるんじゃないかって。
91年から92年になるときに(ホンダ)RS125を買うんです。月賦で。高かったですよ。車体が120万で、いまでも覚えてるけど、キットパーツとかで100万近くかかって。そのとき、チャウチャウ(レーシングチーム)さんにお世話になって。当時、渡辺学さんとかいて。

で、また怪我しちゃうんです。筑波の最終コーナーで握りゴケして、手首を粉砕骨折してしまうんです。坂田和人さん来てて、アプリリアで世界(グランプリ選手権)帰りで。世界チャンピオンのカズートと同じ場所でブレーキングポイントでブレーキしても曲がれると思ったんですねー。タイムが上がるんじゃないかと。かけた瞬間、フロントがいなくなっていて。基本、バカなんですよねー。

で、怪我して、同じタイミングで彼女に振られたりしたりとかして、うちひしがれたりして、これはもう一回、ミニバイクをやろうって。坂田和人にもなれなかったし(笑)。当時、ノリックとか帰って来てOX(レーシング)乗ったりとかして、大ちゃんもコウタケ(Team髙武)とか行っちゃってたし、みんなすげーなーとか思って。当時、大人、僕ら二十歳過ぎ連中は、雄一のこと“雄一様”って呼んでたくらいですから」

──その頃の生業は?

「アルバイトです。僕、高校出るとき、進路指導の先生とケンカして。大学とか高専に行く道があったんですよ。でも、なんとなく先生とソリが合わなくて。何しても稼げるって頭はあったんですよ。別にアルバイトで時給これくらいで、これくらいだから……別に平気じゃんって。

で、高校出て何もせずバイク買って。実は2年くらいバイク乗れなかったんです。18歳でバイク乗り始めてすぐ怪我しちゃったんで。21歳で実質レース始めたんです。

それまでの間、2年くらい浮世絵の専門店、ギャラリーに勤めてたんですよ。その当時、バブルも下降線だったけど景気はよかったんです。古物商みたいなところ。これがけっこう面白くて。社員経験はほんのちょっとしかないです。

それからミニバイク戻ってだらだらやるんですけど、そのときは普通の人で。何の知識も特技もなくて、牛丼の吉野屋から始まって、タイル職人、クリーニング屋さん、配送業、運送業、警備員。けっこうなんでもかんでもやってて、時給の高いバイトを転々としていて。でも時給1000円近く稼いでいたかな。月にだいぶ稼いでましたよ。

26歳くらいのときに、最後にやってたバイトが警備員。“ニンジン振り”みたいな。それが一番長かったかな。けっこう面白くて。いい仲間もいたし。でも、だらだら惰性でやってた感じですよね。

その間、パーツのテストとかチャンバーとかタイヤのテストとか、アルバイトの合間に話が舞い込むようになってきて。だからそのとき、なんか分析してものを言うってのはそのころ勉強したかな。

たぶん、すごく、TTレーサーの中では、ものすごくフツーの人だと思う。彼等の中に入ったら、究極の普通の人だと思う。でもね、継続はチカラなんですよね。俺がそうだもん(笑)」

(その2へ続く)

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2011.08.22

競技|プレス|観客、マン島TTレースの場合

F1やインディで走っているドライバー、佐藤琢磨さんのファンの方ブログ、佐藤琢磨×F1 blogの2011年08月22日付けエントリー

トライアル観戦 『それを阻む一部メディアの“壁”』

で、ツインリンクもてぎで行われたトライアル世界選手権の日本人(?)メディア(一部)たちの状況を嘆いておられます。一部を引用しますと──。

観戦している観客の前に平然と立ち、観戦の妨げに。

(中略)

手前に座っているのが実況の方、そしてカメラさえ構えず、
無意味に立っているのがメディア。

(中略)

仕事だからと視界を急に阻まれるのは納得に値しません。

自由に動き回れるメディアと制限がある観客。
観客は一度決めた場所から その場所を離れる時意外は動けません。
なぜなら観客同士が詰めあって観ている為、横に動くスペースは無いのです。

このような状況は、例えば鈴鹿8耐の表彰式でも問題になったことがたびたびありました。

デイトナ200の場合、表彰式が行われるウイナーズサークルは非常に神聖な場所のようにしてあって、メディアでもごく限られた人数の許可された人しか入ることができません。
うまく導線で選手とプレスと観客との壁をコントロールしているな、さすがエンターテイメントの国だな、と感じました。

メディアの撮影場所・マン島TTレースの場合

ところで、モータースポーツ文化では一日の長があるマン島TTレースではどのようになっているのでしょうか。

観客と競技の物理的距離が近い、観客は(わりと)自由にどこでも観戦できる、という意味では、TTはトライアルの観戦スタイルに近いものがあります。

もちろん、コーナーのアウト側など観客が入れないエリアもあって、事前に告知されているほか、現場には看板や規制線が引かれ、現場のマーシャル(日本で言うところのコースオフィシャル)がロードクローズ(道路閉鎖)中は厳重に観客やメディアを管理します。
その管理の方法は、法律で警察と同じ権限を与えるという強いもので、無断で立ち入り禁止エリアに入ったり、コースを横断しようものなら、逮捕されて刑務所行きになったり、何十万円もの罰金という処分が待っています。

TTの場合、フォトゼッケンを付けたカメラマンは観客よりも入れるエリアが多いのですが、一番迫力ある写真を撮れる場所は案外、観客と同じ目線だったりもします。

ですから、観客が多い場所で観客目線で写真を撮ろうとすると、必然的に観客の前で構えることになります。

マン島TTレースは基本的に観戦は無料なわけですが、大陸やイギリス、アイルランドを走って、船に乗って、時間とお金をかけてやってくる観客はプレスより立場は当然、上、ということに暗黙の了解でなっています。

たとえば、

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こーんなことになっちゃう人気の観戦スポット、バラフブリッジでは──。

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(手前にしゃがんでいる人たちがカメラマン。後ろに鈴なりになっているのは、柵の外にいる観客)

「カメラマンはしゃがんで下さい」とマーシャルに言われます。気付かない新参者には、マーシャルが注意して回ります。

(追記)写真ではカメラマンたちが腰を下ろしていますが、本来、カメラマンはお尻を地面に着けて座り込んではならないとこになってます。何かあったときに、直ちに逃げられるようにするためです。
原則は地べたに座り込むと注意されますが、このバラフブリッジのこの場所はコーナーのアウト側ですがクリッピングポイントの手前なので、長年の経験でほぼ安全と見なされているのでしょう。(そうでないと観戦もできない)
場所によっては(たとえばラムジーパーラメントスクエアのアウト側)なんかは、バイクが飛び込んでくる恐れがあるので、座り込まないで、と注意されることがあります。


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しかし、マウンテンエリアの終わりの見どころ、長い下りから豪快に右にカーブするクレッグ・ニ・バーではこの通り。ずらりと大柄なカメラマンたちが長いレンズを構えています。

彼らの背後はクレッグ・ニ・バーというパブ&レストランで、建物内にはお客さんがいるのですが、観戦を楽しみたいお客さんは建物の2階に上がるので、ここでは問題に付されません。(※2011年の場合、VIPエリアとして事前にチケットを購入した人でないと建物内に入れなかったので、さらに問題は少なくなりました)

競技>観客>プレス

レース中、カメラマンだけでなく、観客も、カメラのストロボ(フラッシュ)を光らせてはいけないことになっています。
これは、フラッシュの閃光がライダーの眼を惑わせる、という理由で、かなり昔からそういう決まりになってます。
自動的にフラッシュを炊いてしまうコンパクトカメラに対しては、マーシャルがストロボをふさぐ黒いテープを持ち歩いて、見つけるとふさだり、マーシャルが「フラッシュ禁止」の看板を持って練り歩いて注意喚起する場所もあります。

また、給油などを行うピットエリアには、原則的にはカメラマンは立ち入ることができません

たとえば、TTのスーパースター、Relentless Suzuki by TAS Racingのゼッケン3番、ガイ・マーティンのピットイン時もこの通り。

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テレビクルーもスチールのカメラマンもいません。
写真に写ってないですけど、フレームの外側に安全確認のためのレースオフィシャルが数名います。

先日、鈴鹿8耐のドキュメンタリーを放送した「紳助社長のプロデュース大作戦!」の中で、ピットインしてきたマシンに轢かれそうになっていたカメラマンがいて唖然としました。
有力チームがピットインしてくると、そこにテレビやスチールのカメラマンが群がる、といった構図は、メディアスポーツ化したモータースポーツでは日常茶飯事の光景なのですが、マン島TTにあっては、そのようなことはまず起こりません。

明確に、競技>観客>プレス、という優先順位が実践されているからです。

「なんでカメラマンはピットに入っちゃいけないの?」とオフィシャル(日本で言うところの運営事務局とか競技監督的なポジションのこと)に尋ねると、

「電気式のカメラは、ガソリンに引火する恐れがあるから」

とのことでした。
もちろんそれは、今となっては大義名分のようなもので、本当のところは、レースの進行を妨げないことと、グランドスタンドからピット作業がよく見えるように、との配慮なのでしょう。

デイトナではある年からピットの屋根が無くなりました。グランドスタンドからピット作業が見えやすいように、との配慮なのだそうです。


とはいえ、こんな迷惑オッサンカメラマンもいるこたぁいる

でも、マン島にだって、中にはこんな迷惑なオッサン カメラマンもいます。

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(「何だよこのオッサンら…」とガンを飛ばす(嘘)松下ヨシナリ選手)

TT最終日のメインレース、シニアTTが終わり、グランドスタンド側に向いている表彰台で表彰式が始まったところ、数名のカメラマンが塀の上へよじ登っている……。もちろん、レース運営で禁止されている事項ですから、マーシャルが注意するのですが、どく気配がありません。

余談ですけど、TTはレースが終わっていなくても、とっとと表彰式を始めちゃいます。ですから、国歌が流れている間も、背後ではエキゾーストノートがそれをかき消す、なんていうシュールな光景となります。レースが続行されているわけですから、ピットロードの塀によじ登るだなんて言語道断なわけです。

話を戻しますが、TTのピットロードはこんな風になっていて、上側の観衆はグランドスタンドの有料チケットを買った客さんたち、下の柵越しに鈴なりになっているのはパスを持っているチーム関係者などです。

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(マン島のグランドスタンド。上が観客席、下の柵越しは関係者)

ちなみに、プレスは原則としてグランドスタンドで撮影することは許可されません。

で、またまた話を戻しますが、この塀の上のカメラマンたち、とくに柵越しで表彰式を待っていた関係者からどくように文句を叫ばれてました。あくまでジェントルな内容でしたけど、

「カメラマンは特権じゃねぇ!」

「チームや観客がいなけりゃ、オマエの仕事は成立しねぇんだぞ!」

みたいな感じ。
何人かはその声を受けて、塀から降りたので、「あんたはジェントルマンだ!」「あんたは本物のカメラマンだ!」などと讃えられていましたが、右側の人は最後まで降りることはありませんでした。

んで、この方。公道レース界では大御所のカメラマンで、何冊も素晴らしい写真集を出版されている方です。
この表彰式のあとも、さらに困った行動に出ておられました。

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(左がガイ・マーティン選手、右が勝ったジョン・マクギネスマギネス選手)

この写真はメインのシニアTTを終えての記者会見の様子ですが……。大御所さんが、選手のいるテーブル前でどーんとカメラを構えるもんですから、壁際に並んだ他のカメラマンさんたちが困惑すること、困惑すること。

ちなみに、記者会見会場はこんなレイアウトになっています。

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(いつものように、左手マウスで描くマイクロソフト・ペイントによる図)

入り口側に選手が並び、中央にはラジオや雑誌記者など。壁際にテレビクルーとカメラマンなどが並んでいました。
……なのですが、なぜかこの大御所さんだけは、選手席の真ん前に陣取って動かない。ずっと動かない。動かないのにフォトセッションもない。いや、あったかもしれないけど。表彰式のフォトセッションでも、選手と50cmくらいの至近距離まで近づくオッサン大御所さん。

いつ殴り合いのケンカになってもおかしくないのですけど。

暴力的な解決をさせないためには、オーガナイザーがそこまで面倒みないといけないのかな、なんて漠然と思っているところです。

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